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墓標の捨て台詞

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 今、五郎は香織と付き合っているのに、どうしてこんなにいろいろな女を思い出すのだろう。確かに敦美と付き合っている時でも、和代のことを思い出していた。だが、同じ和代を思い出すとしても、敦美との交際期間、結婚期間を含めて思い出すのは楽しかった思い出だけなのだ。
 それなのに、香織と付き合っている今は、和代本人というよりも、その後ろに見え隠れしている横田の存在に怯えているのだった。
「一度も会ったことのない人であり、さらに今はこの世にいない人に怯えてどうするというのだ」
 と自分に言い聞かせるが、返ってくる答えは、
「この世にいないからこそ、怖いんじゃないか。この世にいれば対策の打ちようもあるというものだ」
 確かにこの世にいないということは、怖いことなど何もないはず。しかし、五郎の中で中途半端に何かが残っているようで、それを確かめることができないのが、気持ち悪いのだ。
 横田という人間のことは、ほとんどと言っていいほど何も知らない。和代と付き合っていた頃にパートのおばさんたちから聞いた数少ない情報だけだ。
「いつも大人しそうな人で、お母さんを大切にしているところがいじらしかったね。和代さんと付き合っている時は、うまくいってほしいって思ってたよ。そうじゃないと、二人とも浮かばれないような気がしてね」
 と、ここまで言うと、
「あっ」
 と言って、口をすぼめた。表情は、
「しまった」
 と告げている。相手が五郎でなければ問題ないのだろうが。今の彼氏に前の彼氏の話をするのに、うまくいってほしいという言葉はないだろう。五郎はそれでニッコリと笑っておばさんが傷つかないように配慮した。
「そうかも知れませんね」
 と、一言答えたが、その時、横田の話にはどうやら暗黙の了解の緘口令が敷かれているかのようだった。だから誰も話したがらないし、その時おばさんが少しだけでも話してくれたのは、その時の五郎の雰囲気に圧倒されたからなのかも知れない。
 和代と横田の交際は、会社を巻き込んだもののようだった。社内恋愛なのだから、当然のことだが、五郎までもが、同じ轍を踏んでしまうとは、誰が想像しただろうか。別れが訪れた後、おかしくなってしまった五郎に会社が出した結論は転勤だった。それはまさしく横田と同じ運命なのではないだろうか。
――あの人との違いは。僕はまだ生きているということかな?
 和代と別れて、もう十年以上も経っているというのに、未練がましいと言われても仕方がないが、不思議と五郎の中に、和代への未練はない。その証拠が敦美と一緒にいる時に思い出す和代との思い出が、楽しいことばかりだったからである。すでに五郎は、和代とのことを「楽しい思い出」としていたのだ。
 どうしても和代のことを忘れられない理由は、やはり五郎が原因である。五郎の死は、実は自殺だったのだ。
 もし、五郎の死が自殺でなかったとすれば、和代は五郎と別れることをしなかったかも知れない。
 もちろん、自殺の理由は分からない。自殺だというのも噂で聞いただけでハッキリとしたことを信頼のおける人から聞いたわけでもない。ましてや、和代の口からは、横田が死んだということすら聞いたことはなかった。信憑性などどこにもないのに、五郎は信じて疑わなかったのである。
 和代が、五郎の前から姿を消そうとしていたのは事実のようである。会社を辞めて、一人でどこか知らない土地に行くつもりだったということは、和代の口から聞かされた。横田の死を知らなかった五郎には、まさに青天の霹靂、これほど辛いことはなかった。
 横田の話で、一つ信憑性のある話を聞いたのは、彼は転勤して行った先で結婚したということだった。それを聞いたのは、和代が五郎の告白に答える少し前のことだった。だからあの日、和代が誘った時、交際をスタートさせられることを、信じて疑わなかったくらいである。
 その五郎が、和代から別れを告げられる少し前に、行方不明になったという話を噂で聞いた。これこそ信憑性のない噂として五郎は真に受けなかった。結婚して幸せな生活を送っているはずの新婚生活を捨てて、なぜに行方不明にならなければいけないというのだ。横田の話は突拍子もないことが多すぎる、何を信じていいのか分からなくなるのも当たり前で、この時のイメージがあるから、五郎は、横田のことが忘れられずにいるのかも知れない。
 五郎は、和代のことも忘れられなくなったのは、別れてから五年が経った頃のことだった。
 和代は、五郎と別れてから二年後に結婚したらしい。相手は大学教授ということで、玉の輿と言えるだろうが、五郎はそうは思わない。
――和代なら、暖かい家庭を築けるだろうな――
 と、考える。
 大学教授というと、なかなか忙しいと聞いている。学部によっても違うかも知れないが、大学に泊まり込んで研究ということも少なくないだろう。家で一人、旦那の帰りを待っている和代を想像すると、自分と出会った頃を思い出してくる。
 殊勝な姿が和代には似合っている。旦那のために、料理学校に通ったりもしているのかも知れない。お金には困らないだろうから、それなりのセレブを自分で描いているに違いない。
 ただ、セレブ奥様との昼下がりの喫茶店での紅茶は想像できない。むしろ一人本を読みながら、昼下がりの紅茶を楽しんでいる姿の方が思い浮かぶ。読んでいる本は、ハーレクインロマンスであろうか。
 一緒に飲んだ五郎の部屋での紅茶。あれはティーバックだったが、おいしかった覚えがある。五郎の誕生日に、和代がショートケーキを買ってきた。乳製品が苦手な五郎の分はショコラケーキだったが、あまり甘くないビターチョコは大人の味だった。
 五郎と和代は、一時期同棲していたが、最初に和代が買ってきてくれたのが、誕生日のケーキだったのだ。
 デコレーションケーキではないところが和代らしい。あまり大きなケーキだと仰々しいし、食後のデザートとして、二人だとショートケーキがちょうどいいのだ。それでもろうそくはもらってきたらしく、ショートケーキにろうそくをとりあえず一本立てるというユニークな誕生日となった。この時のことは、後から何度も思い出している。思い出の中で一番最初に心に残ったものだったかも知れない。
 和代との同棲は、人から見れば、ままごとの延長のようなものだったのかも知れない。だが、家族以外の人と一緒に過ごすのは初めての五郎には、これ以上新鮮なものはなかった。
――結婚すれば、これが毎日続くんだ――
 ワクワクドキドキだった。扉を開けると暖かい空気は中なら溢れてくる。これは、一人暮らしをする中で、一番の憧れだった。
 暖かさは、空気に混じって人の気配を感じるだけでも安心感が伝わってくる。それが最愛の人なのだ。これ以上の喜びはないだろう。
 喜びの中で、和代の目を感じていた。その眼は五郎を慕う目、大きな目をさらに大きく見開いた目は、ある意味、考え方をしっかりと持った女性だということを表していた。
 和代は、五郎と付き合っている時の本当の幸せは何だと感じていたのだろう? 五郎はそれが最後まで分からなかった。いや、今も分かっていない。永遠に分かることのない謎なのだ。
「五郎さんは、私のどこを気に入ってくれたの?」
作品名:墓標の捨て台詞 作家名:森本晃次