墓標の捨て台詞
この話を聞いたのは、他の人からだ。誰だったか分からなかったが、噂になりかけていたので、最初の方ではなかっただろう。
五郎は、怖くて和代に聞き質すのを戸惑った。その戸惑いが、結局は問いただすタイミングを逸してしまった。和代に事の次第を正すことができない間に、和代から別れの話が出たのだ。
――横田のことが絡んでいるのか?
それ以外には考えられない。だが、問いただすことはもはやできなかった。この場で問いただすことは、自分から和代に引導を渡す覚悟がなければできないことだ。そんな勇気を持てるはずもない。
五郎の性格からすれば、どうせ別れることが決まっているのであれば、今さら問いただすようなことはしたくない。喧嘩別れのようなことはしたくないという思いが強く、喧嘩別れをするくらいなら、理由が分からない別れの方がマシだと思っていた。
だが、別れを切り出された時に、その気持ちが間違いであったことに気が付いた。
――こんな思いをするなら、問いただせばよかった――
と、思ったが、青天の霹靂で頭の中がパニックになっている五郎には、すでに問いただすことなどできない状態である自分に気付かされた。
別れの理由について、和代の答えは要領を得ない。もっともらしい話ではあったが、ごまかそうとしている素振りが見えるのだ。
それは横田と会っていたという話を聞いていたからかも知れない。だが、もし聞いていなかったとしても、ごまかそうとする態度は、ずっと付き合ってきた五郎だからこそ分かるのだ。
問いただせなかったことへの後悔の念が自分を苛めるだけではなく。和代に対しての不信感となる。かと言って、別れることに承知する気持ちもない、そのジレンマが、さらに別れを受け入れられない自分を苛めるのだ。
――一体、どうしろというのだ?
訪れることなどないと思っていた別れを感じた時、それまで自分が和代に感じていたことでやり過ごしていた思いがあったことに気付かされた。その中にあったのが「すれ違い」という思いであり、横田というまだ見たことのない男性への言い知れぬ不安であったのだろう。
横田の存在に恐怖を感じていた。直接的ではないのにここまで不安を感じさせるということは、逆にそれだけ和代を自分の中で大きくしている証拠なのかも知れない。
和代を追いかけることだけが、五郎の中での優先順位となり、他のことは何も見えなくなった。相変わらず、和代は横田のことを口にしようとはしない。結局は何も言わずに別れるつもりだろう。
――それは卑怯だよ――
和代に言いたかった。そして、それを言えない自分が腹立たしく、気持ちが複雑な堂々巡りを繰り返すのを、どうすることもできないでいた。
出会った時のことを思い出す。告白した時を思い出す。そして、彼女から返事をしてもらった湖でのボートの上を思い出す。走馬灯は時系列とともに思い出させてくれたが、記憶が今に近づいていくにしたがって、時系列が崩れてくる。それだけ最近になって交錯しているに違いない。
自分の中で膨れ上がる横田の存在は幻影でしかない。幻影はとどまるところを知らない。一度も会ったことがない相手だというのが、五郎には引っかかっていた。
――会ったことがない相手から苛まれるなど、これほど辛いことはない――
と感じていた。
不安が恐怖に変わったであろうその時のことを五郎は覚えていた。夢を見たのを思い出したからである。夢は目が覚めるにしたがって忘れ去っていくことが多いが、その時も夢を見たことさえ忘れていた。
――嫌な夢なら、覚えていそうなものだが――
その時の夢は、一人の男が自分から、和代を奪っていく夢だった。顔は逆光になっていてハッキリとしないが、その人が横田であることは、その時の状況で分かった。もっとも、顔が見えないと分かった瞬間から、夢だとは分かっていたように思えるが……。
横田のそばにいる和代の表情は、最初の一瞬しか分からなかった。その顔は嫌な顔をしていない。隣にいる男を慕う顔だった。そう思った瞬間、和代の顔や表情を確認できなくなってしまったのだ。
「和代」
五郎は声を掛けたが、和代はそれに答えようとはしない。
――どうして無視するんだ?
和代であれば、無視するなど考えられない。自分の立場が良かったとしても、相手が五郎であれば、何かしらの反応を示すはずだ。
喧嘩が絶えなかったのがそのせいである。
立場が弱くても、和代に対してだけは、反応を示すのは。五郎も同じことだった。
五郎は、元々気が弱い。実際にまわりからも、気が弱いと思われていることだろう。少しでも言いこめられると、答えようがなくなり、何も返事ができなくなってしまう。
現在の仕事の上でも同じことが言える、
――どうして克服できないのだろう?
ついつい楽な方へと逃げてしまう。
言い返すことができないのは、先を読んでも結局同じところに考えが戻ってくるからだ。堂々巡りを繰り返してしまうことで、五郎は相手の答えを予期すること自体怖くなる。予期したことが当たっていれば当たっているほど、自分が逃げられないことを悟るからであった。
今の五郎は女性と付き合っても、喧嘩をすることはなかった。妻であった敦美とも喧嘩をしたことはない。それだけに離れていた時の敦美は、今までで一番怖い存在になっていた。それは和代との別れの時に感じた和代に対しての怖さとは比べ物にならなかった。
和代に対しては、
「どうしてなんだ?」
という思いが強かったが、敦美に対しては、本当に怖いと感じ、できることなら、時間が戻ればいいと、一瞬だけだが思ったほどだ。
五郎が、
――時間が戻ればいい――
などと考えるのはよほどのことで、今まで、同様のことを考える人の気持ちが信じられないと思っていたのだ。
時間が戻ったとしても、戻る時間がほんの少しでも狂えば、そこからの人生はまったく違ったものでしかない。
きっと戻った時間からその先の将来に対して、それまで培ってきた気持ちは消え失せているに違いない。戻った瞬間に気持ちが戻るだけなのだ。そうでなければ、そこから邪推が働き、先を見誤るに違いない。いわゆる時間に対しての「タブー」と言ってもいいだろう。言い方を変えれば、「パラドックス」である。
パラドックスとは、逆説の意味。逆も真なりという言葉があるが、それを証明した形がパラドックスと言えなくもないだろう。
戻った時間から、新たな人生がやり直せる。そんなことは不可能だと思えるが、ひょっとして夢だと思って見ていたことで、目が覚めてから、何か理由は分からないが、言い知れぬ不安とともに、どこかに分からない異変が隠されている時があれば、その時は、
――人生をやり直しているのかも知れない――
と思うことも決して間違いではないような気がしてきた。