墓標の捨て台詞
と思いながら声が掛けられずにいたが、思い切って五郎の方から声を掛けると、相手は感激し、
「本当によく声を掛けてくれたよ。俺も声を掛けようかと思ったんだけど、なかなかね」
と言って頭を掻いた。ひょっとして、五郎から話しかけなければ、ここまで仲良くはならなかったかも知れない。もし、先輩から声を掛けてくるようであれば、五郎が、先輩が感激してくれたほどの感動を受けるはずはないと思うからだった。
先輩が感激屋だということだけで片づけられるものではないかも知れない。
五郎は学生時代には、閉鎖的なところがあった、だから、なかなか友達もできなかったのだし、人から声を掛けてもらえるようなタイプでもなかった。それなのに、なぜその時先輩に声を掛けたのか今となっては思い出せないが、
――ここで声を掛けなければ後悔する――
という思いが頭の中にあったようだ。
確かに声を掛けたことが引き金になって、それからの五郎は友達も増えていった。ただ、先輩だけは別格で、尊敬するようなところも、学び取ろうと思うようなところも何もないのに、なぜか従う気持ちにさせるのは、先輩の持って生まれた人を惹きつけるオーラのようなものがあるからなのかも知れない。
先輩も、友達の少ない人で、
「俺は最初から友達なんていらないと思っていたからな」
と言っていたが。寂しさという意味では、どうしようもない気持ちがあるようだった。そうでもなければ、五郎が話しかけた時に、あれほど感動するはずもない。まったく第一印象をひっくり返すだけの強烈なイメージだったのだ。
先輩は体格もよく、高校時代は柔道をしていただけのことはあって、頼りになる雰囲気は十分に醸し出していた。大学に入ってからはサークル活動をしているわけではなく、体格を生かして、肉体労働のアルバイトに精を出している。
「アルバイトをしていると、人間関係も楽しいぞ」
肉体労働関係で仕事をしている人は、五郎から見ていると、怖くて近寄りがたい雰囲気に見えるので、先輩の話が半信半疑であった。それでも、先輩は学校に来るよりも楽しいらしく、毎日をほとんどアルバイトで潰していた。
そんな先輩を、五郎は、半分呆れた目で見ながら、半分は尊敬していた。呆れた目で見ているところは、多分他の人と同じ感覚ではないだろうか。しかし、尊敬しているところもあって、最初はそれが何であるか分からなかったが、あまり考えないようにすることでフッと浮かんでくるものがあった。
――潔さなのかも知れないな――
潔さという点では、五郎にはないものであった。潔さとはその裏に何があるかで、考え方が変わってくる。五郎には、それが「覚悟」という言葉に思えてならないのだった。
覚悟は人によって大きさも違えば、持っている人、持っていない人、そこに気付く人、気付かない人と様々であろう。
先輩は名前を、斎藤吉之助という。
「吉之助というのは、西郷さんの幼名で、親が西郷隆盛を尊敬していたことからつけたらしい。子供にとっては、困ったものなんだけどな」
と言いながら豪快に笑った。
なるほど、雰囲気も風格も、まさしく西郷さんにそっくりだ。親も先見の明があったというものだ。
吉之助先輩は、風体はいかにも「ガキ大将」という雰囲気なのだが、意外と女性にモテる。頼りがいがあるというイメージなのか、先輩を慕ってくる女性も少なくない。本人が言うだけのことはあるのだろうが、
「俺は、結構頼りになるらしい」
と、ほくそえんでいたが、女性と二人きりになるところを想像するのは難しく、考えたくない部類の発想だった。
実際に五郎も悩みがあると、先輩に話をする。的確なアドバイスが返ってくるのだが、なぜこの人に男性の友人が少ないのか、不思議で仕方がなかった。
――嫉妬があるのかも知れないな――
どう見ても女性にモテるタイプではないのに、なぜか女性に人気がある。しかも、自由奔放に生きているように見えて、悩みがなさそうな雰囲気が、男性陣の怒りに繋がっているのかも知れない。
だが、そんな雰囲気だからこそ、女性にモテるのかも知れない。その他大勢の中で目立たない男性よりも、異端児であっても、目立っている方が女性から見て魅力があるのだろう。そう思うと、自分の中にある先輩への憧れの気持ちの一端が見えてきたような気がするのだった。
大学時代に、女性と付き合ってもすぐに別れてしまう五郎を見て、
「何となく理由は分かるような気がするんだけど、でもこんなに続くというのも不思議な気がするな。きっとお前と付き合っていける女性は、本当に素敵な女性で、そんな女性はそのうちに現れると思うぞ」
慰めにしか聞こえない。
「慰めはいいですよ」
というと、
「俺が慰めだけで、こんなことを言うと思うか?」
確かに先輩の言動には、ウソはない。それが先輩の一番いいところだ。
その次にいいと思うところは、人懐っこさだ。
雰囲気は、西郷さんなので、なかなか人懐っこさを感じるところはない。笑顔というよりも豪快に笑い飛ばす雰囲気は、人によっては、嫌いなタイプになるだろう。そんな先輩のことを五郎は頼もしいと思うが他の人は分からない。
もっとも、五郎が人懐っこさを感じたのは、初めて会った時の、あの喜び方に感動を覚えたからで、最初のイメージが頭にこびりついて離れないのは、ツバメの子供が最初に見たものを親だと思い込む感覚と似ているのではないかと感じると、思わず吹き出してしまいそうになるのを感じた。
そんな先輩と、一緒に入ったコーヒー専門店。そこは、今まで五郎が足を踏み入れることのなかった場所で、一人だったら、絶対に入り込むことはないだろう。先輩と一緒だからというよりも、無理やりに引っ張ってこられたというのが、本当のところであった。
街の繁華街から裏路地に少し入ったところ、昼間でも、一人で歩くのは少し怖い。昼間は人の往来もほとんどない寂しいところだが、夜になると、一番賑やかなところとなるのだ。
賑やかというよりも、煌びやかというべきか。一瞬にして光が色を変えて、艶やかさが淫靡な雰囲気を醸し出す。
五郎が来るのは、実は初めてではなかった。一度、高校卒業の時に、卒業パーティと称して高校時代の友達と飲んだ時、帰りに皆で立ち寄ろうという話になった。
五郎も途中まで来たのだが、
「やっぱり俺は」
と言って、何人か臆病風に吹かれたのか、最初から来ない人がいた。五郎も正直臆病風に吹かれてしまったのかの知れないが、当時まだ女性を知らなかった五郎は、
――こんなところで、初体験を済ませていいのか?
という自戒の念に囚われていたのも事実で、ちょうど好きな人がいて、その人に対して片想いではあったが、顔が浮かんできて、
――申し訳ない――
と、何に対してなのか分からないまま、想像の中で謝っていた。
それでも、欲望に勝てるものはないと思って、それを言い訳に、そのまま皆について行こうと思い、申し訳程度に恐縮し、皆の後ろを目立たないようについていった。
皆の後ろをついて歩いていると、次第に皆の身体が大きく見えてきた。背が高くなっているのではなく、全体的に大きく見えてくるのだった。