墓標の捨て台詞
何が気になったかというと、笑顔だった。今までの五郎であれば、笑顔が一番気になるのは当然のことだったが、あらためて笑顔がステキな人が気になる自分に気が付いたのだ。笑顔は、意識して作れるものではない。笑顔にはその人の性格が滲み出ている。相手にどれほど興味を持っているかなどは、笑顔を見れば分かってくる。逆に笑顔でウソをつくこともできないというものだ。
香織という女性を愛してしまった以上、他の女性に目を向けることは罪悪であることは分かっている。相手がまだどういう人なのかも分からないのに、気ばっかり逸った気持ちになるのもおかしなものだ。
香織は十分魅力的で。今までの自分のまわりにいた人たちとはまったく違っていた。
――本当に愛すべき人が現れた――
と思ったほどだが、他に気になる人が現れても、その気持ちは変わらないつもりだった。
確かに変わってはいないが、他の人が気になること自体、自分でも信じられなかった。浮気癖とは違った意味で、他の人が気になる感覚、それが恋愛に対して、感覚がマヒしているからではないかと思うようになっていった。
――勘違いだろうか?
恋多き人は、嫌われることが多いのだろうが、五郎にはその人が、ロマンチストに見えて仕方がなかった。
彼女とは、ゴミ捨ての時以外は、お店でしか会ったことがなかった。もちろん、お店ではコーヒーの話以外にすることはない。名前を聞くのも戸惑ってしまうほどで、彼女の前に出ると、五郎は自分らしくないと思いながらも、何も言えなくなってしまうのだった。
香織が一時期、
「少し、実家に帰る予定があるので、寂しいだろうけど、我慢してね」
と、言って、一週間ほど、会えない時期があった。
「うん。分かった」
と言って、愁傷に寂しさを表に出したが、心の中では、さほど寂しさを感じていない。香織のいない時間を、いかに過ごそうかと思うほどで、寂しさよりも、先を見ることができたのは、どうしてなのだろう?
香織が実家に帰ってからすぐのことだった。香織と会うこともなくはなく、早く帰ってきた五郎の部屋を、彼女が訪ねてきた。
「こんばんは、夕飯作りすぎたので、おすそ分けにきました」
ブザーが鳴って、扉を開けると、そういって、屈託のない笑顔を浮かべた彼女が立っていた。さすがにビックリして、思わず背中を逸らしてしまった五郎だが、すぐに気を取り戻して、
「ありがとうございます」
と答えた。
もう少ししどろもどろになってしまうかと思ったが、意外と落ち着いていたのかも知れない。彼女の持ってきたのはパスタで、トマトソースの香りが、心地よかった。
「まだ、たくさんありますので、よろしければ、家に来ませんか?」
というお誘いを受けたが、すぐに返事をしかねていると、
「どうぞ、ご遠慮なさらないでください。らしくないですよ」
と言って微笑んでいる。らしくないという言い方は、まるで五郎のことを前から知っているかのような口ぶりだった。戸惑いながらも知っていてくれているのだとすれば喜ばしいことだと思えてくる。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
と、言って恥かしそうに頭を掻きながら彼女の後を追うように部屋に入ると、扉をくぐった瞬間に、一瞬後ろめたさを感じた。それは、くぐってしまうと、元には戻れないという意識が働いていることを示していたのだ。
今まで、女性の部屋に入ったことがなかった五郎だったが、想像していたよりも、質素だった。ただ、部屋の中に漂っている甘い香りは、鼻孔をくすぐり、何か自分が場違いであるかのような錯覚に陥っているのを感じていた。
こじんまりとしている部屋にはソファーが置かれ、その奥に、部屋の大きさに比べて、少々大きいかと思えるようなテレビがあった。
「一人暮らしだと、テレビを見たりするくらいしか、お部屋の中での楽しみはないですからね」
そう言って微笑んでいる。その時初めて、彼女の名前を知った。彼女は名前を里穂といい、引っ越してきたのは最近だという。
「最近引っ越してこられたのだったら、なかなかお会いすることはなかったとしても、それは仕方がないことですよね」
「ええ、でも、こっちに引っ越してきてすぐにあのお店で働かせてもらっているので、五郎さんとお会いした時の私は、右も左もまったく分からない時でしたから、お話ができただけでも、心強さを感じたんですよ」
「そうなんですね。この間お会いした時、お店との雰囲気が少し違っていたので、気になっていたんですが、そういうことでしたら納得できます」
「お店では、お客様相手ですから、変わらないようにしているんですよ。でも、あれから少しですけど、五郎さんがお店に来られると、気になるようになっていたんですよ」
「それは嬉しい限りですね。でも、態度が変わったようには見受けられなかったので、やっぱりさすがというところでしょうか?」
「これでもドキドキしていたんですよ。そのうちに五郎さんが見えられるのを、密かに心待ちにするようになっちゃって」
「そんな雰囲気は感じなかったけど、僕が鈍感なのかな?」
そう言って笑うと、里穂も笑う。里穂の笑顔にはえくぼが浮かび、えくぼというものを初めて見たのを改めて感じたのだ。
「里穂さんは、コーヒーが好きなんですか?」
コーヒー専門店で働いているのだから当然なのだろうが、まずは会話のとっかかりとして軽く聞いてみた。
「そうですね。でも、以前はまったく受け付けなかったんですよ」
「受け付けないというと?」
「飲めないだけではなくて、匂いがするだけで、気持ち悪くなっていたくらいで、自分ではまるでアレルギーではないかとさえ思っていたほどなんです」
「何か、飲めるようになったきっかけでもあるんですか?」
「ええ、私が短大の頃のお友達といつも喫茶店でお話していたりしたんですけど、そこのお店のコーヒーは、私が気持ち悪いと思っていた匂いとはまったく違った香りだったんですよ。騙されたつもりで飲んでごらんと言われて口をつけたら、嫌な気がしなかったんですね。それから、コーヒーが好きになって、それまで嫌いだった他のコーヒーも飲めるようになったんですよ」
「何が幸いするか分からないということでしょうか?」
「まったくその通りだと思います」
五郎は、最初に入ったコーヒー専門店を思い出していた。
そのお店に入った時、五郎の気持ちは、
――心ここにあらず――
と言った感じだった。
ワクワクソワソワした気分になっていて、自然と貧乏ゆすりをしているのは分かっていたが、止めることはできなかった。
その時一緒にいたのは、大学の先輩だった。
「お前のためだからな」
と言いながら、先輩はタバコの本数がどんどん増えていく。五郎自体はタバコは吸わないので、少し鬱陶しいと思ったが、先輩には逆らえないし、何よりも先輩がこれからお膳立てしてくれることに比べれば、タバコの煙など、たいしたことではなかった。
大学に入学してから、友達があまりできなかったが、高校時代の先輩で、五郎のことを気にしてくれる人がいた。高校時代はあまり面識がなかったが、偶然授業で一緒になった時、お互いに、
――どこかで見たことがある人だ――