墓標の捨て台詞
好きになるということに消極的だったわけではない。ただ、人から好きになられることの方が、自分が好きになるよりも、ドキドキするのだった。自分が好きになると、主導権は自分であるが、緊張してどう接していいか分からなくなる。
――会話がうまくできなければどうしよう――
という思いも強かった。
相手から好きになられたのであれば、自分は受け身で、相手に提供してもらった話題に答えていけばいい、そんな短絡的な考えが頭の中にあった。
だが、そんな理論的なことよりも、人から好かれるというのは快感だった。子供の頃から男女問わず、人から好かれるよりも嫌われることの方が圧倒的に多かった。嫌われるというより、相手にされないと言った方が正解なのかも知れない。
子供の頃の五郎は、意地っ張りだった。友達ができないのは、その意地っ張りのせいで、人がせっかく教えてくれようとしていることでも、勝手に押しつけだと思い込み、拒否の姿勢を示していた。殻に閉じ籠る性格があったが、意地っ張りな性格が結びついて人を寄せ付けないようになっていたのだ。
友達ができないことが不思議だった。自分から話しかけようとすると、相手の冷たい態度にドキッとして、それ以上話ができなくなる。嫌われているのは歴然だった。
――どうして?
今度は、意地っ張りな性格が顔を出し、
――こっちから歩み寄る必要なんてないんだ――
と思い、そこで壁を作ってしまう。完全な悪循環なのだが、それでも原因は分からない。きっとここまで来ると、原因などどうでもよくなって、意地だけで反発することが自分の生き方だと思っているのだろう。
そんな五郎なので、人から好かれたことなど、ほとんどない。好かれたとしても、本人が気付いていないのかも知れない。何とも損な性格と言えるのではないか。
だから人から好かれることに飢えている。本人は
――人から好かれなくてもいいんだ――
と思っているが、それが自分の性格である「意地っ張り」に結びついているなど、夢にも思っていないことだろう。
中学に入ると、異性に興味を持ち始めた。最初は徐々に異性への興味を持ち始めたのだが、ある時、急激に異性が気になり始めた。
理由は分からなかったが、友達が彼女を連れていて、楽しそうにしているのを見ると、いたたまれなくなるのだ。
――この僕が人を羨むなんて――
意地ばかりを張って、まわりと比較すらしたことのない自分が、急に羨ましく思うようになったのは、思春期になったからだと思っていた。
それは間違いではないのだが、思春期になると、なぜまわりが気になるようになるのかという一歩踏み込んだことを考えたことはなかった。漠然と思春期というものは病気のように襲ってくるもので、あがいても抜けられないものだと思い、諦めていたのかも知れない。
一目惚れの相手、和代は今までに自分のことを好きになってくれた人の中にいるタイプだった。五郎が好きな女性のタイプは、基本的には大人しい子で、あまり口を出さないタイプの女性だった。見ているだけで、
「守ってあげなければいけない」
と感じる、そんなタイプの女性である。
和代は、いかにもそんなタイプの女性で、化粧の濃い他の二人の事務員と違って、薄化粧で、あまり明るい表情が似合う感じがしなかった。ただ、どこか気になる存在で、そばにいると、話しかけてあげなければいけない雰囲気を要していた。
中学時代に異性が気になり始めた時、自分がどんなタイプの女性が好きなのか、考えたことがあった。すぐに見つかるわけのない結論だったが、ふっと思いついた時のタイプが、今もそのまま意識として残っている。
――自分が連れて歩いていて、他の人が羨むような女性――
だと、最初は思っていたが、どうやらそうではない。自分の好きな女性のタイプは他にあった。もちろん、人が羨むような女性を連れていたいという思いが大きいのは否定できない。
和代と初めて話をしたのも、転勤してから、数日経ってからだった。他の女の子たちが、好奇心いっぱいにいろいろ聞いてくるのを横目に、興味なさそうに自分の仕事をコツコツこなしている姿は威風堂々としているが、五郎は気になって仕方がない。
気になる五郎は、チラチラと和代を気にしている。何度も気に掛けているうちに、さすがの和代も気になり始めたのか、五郎を気にするようになっていた。
お互いに気にしているのだろうが、表情が変わることはなかった。
――相手が笑顔を見せれば、最高の笑顔を見せるだけの自信はある――
と、五郎は思ったが、間違っても自分の方から笑顔を見せることはないと感じたのは、意地ではないような気がした。
和代も決して笑顔を見せようとはしない。ただ、五郎を意識しているのも分かってきたし、もし笑顔を見せるとすれば、他の人に見せたことのないような最高の笑顔を見せてくれるような気がした。
最高の笑顔というのは、どういう笑顔だろう?
初めて和代の笑顔を見た時、
――前にも見たことのあるような笑顔だ――
と、初めて見たはずの笑顔を、過去にも見たと思う。それが最高の笑顔だと思った。
――和代が見せた笑顔だから、そう思うのかも知れない――
とも感じた。
それも間違いではない気がするが、以前にも同じように好きになったことがある人がいて、その人の笑顔を思い出しているのかも知れない。だが、それを感じさせたのは、和代の笑顔を見たからに違いない。ほとんど笑顔を見せることのない和代が、五郎に対してだけ見せた笑顔、それこそ、初めて見せた笑顔ではないことを思い出させるものだった。
和代と会社の外で初めて顔を合わせたのは、ただの偶然ではないように思えた。だが、顔を合わせても、何を話していいのか分からずに、黙っていた。座った席は別々のテーブルで、和代は声を掛けただけで、それ以上のことは口にしなかった。
――ひょっとして、声を掛けたことを後悔しているのかも知れないな――
その時の五郎は、自分が和代に一目惚れをしているという意識はなかった。どうしても話しをしないと我慢できないわけでもなく、しばらく本を読んで、
――いつものようにキリのいいところで帰ればいいのだ――
と思っていただけだった。
だが、そう思えば思うほど、そして時間が経てば経つほど、和代のことが気になってくる。
――目の前にいて、触れようと思えば触れるくらいの距離――
と、五郎は感じていた。だが、声を掛ける勇気がないことを自覚すると、今度は、まわりが真っ暗になって、二人だけがスポットライトを浴びているかのような錯覚に陥るのだった。
和代には、人を寄せ付けない雰囲気があるのだと、五郎は思っていたが、それが錯覚であることに気が付いたのは、この時だった。そのことに気が付くと、初めて自分が和代に一目惚れしていたことに気が付き始めた。
その時にすぐ感じたわけではない。徐々に気付き始めたのは、その日の喫茶店では、結局話をしなかったからである。その時、どちらからか話しかけていれば、一目惚れだったことに気が付いたはずだ。いや、ハッキリそう言い切れない。話しかけていれば、ただの同じ会社の人間というだけで済ましていたかも知れないからだ。