墓標の捨て台詞
身体を重ねている時に、身体が宙に浮いている感覚を受ける時がある。それはお互いの体温が同じであれば、暖かさも冷たさも感じることなく、何となく違和感だけが残るであろう。
しかし、体温が同じなどということはあり得るはずもない。きっと、お互いの順応性で、慣れてきた身体が同じ体温になろうと調整をしているからではないだろうか。
風呂に入った時、最初熱さで身体が我慢できないくらいであっても、次第に身体が慣れてくると、体温が湯に馴染んでいるのか、熱さを感じなくなる。それと同じなのではないかと思うのだ。
香織が幻のように思えてくるのは、体温を同じに感じる作用が働いているのかも知れない。宙に浮いた感覚が、落下してきた時に、着地点を見つけることができないのと同じで、ふわふわした感覚だけが残っているのではないだろうか、
――快感って一体何なんだろう?
男としての快感は放出の一点に集中していると思っていた。
放出してしまえば、その後に残るのは気だるさと、虚しさだけだった。今までの女性では虚しさの度合いの違いこそあれ、虚しさを感じないなどということはなかったであろう。だが、香織と知り合ってからは、虚しさはない。心地よい余韻が身体を包み、敏感になった身体がこそばゆいのは今までと変わらないが、こそばゆさだけではなく、暖かさを感じさせないほどの一体感を与えてくれる香織の身体は、本当に相性が合っているに違いないのだ。
相性が合っているという言葉だけでは片づけられない何かがあるような気がする。相性の問題であれば、身体の相性、性格の相性、いろいろあるだろう。きっと心身ともに相性が合っていなければ、香織に感じたような一体感を感じることなどできないに違いない。
香織は友達がほとんどいない。
「私には友達なんて不要なのよ」
と言ってはいたが、五郎は香織を抱いたことで初めて香織の中に寂しさが蓄積されていることを知った。今まで付き合った女性の中にも寂しさを感じている人はいた。いや、誰もが多少なりとも、寂しさを感じている。同じ寂しさでも、香織はどこかが違っているのだ。
友達がいらないと言いながら、
「五郎さんとは友達という意識が強いかも知れないわ」
いつも二人きりで愛し合っている相手に対して、ここまでアッサリと言えるものだろうか。
――香織にとって、友達って何なんだろう?
考えさせられるところであるが、香織の中には、少なくとも、慣れ合いが友達の定義のように思えていたのかも知れない。言葉では何とでも言えるが、いざとなれば、誰もが自分が可愛い。友達を自認するなら、もう少し相手のことも考えてあげればいいのに、と思う。
可愛いのは自分だけという考えを否定するわけではない。自分を可愛いと思えない人が、人のことなど分かるはずもない。
五郎もしょせんは自分が可愛いだけの一人だった。身体を重ねていて、二人きりになった相手であっても、しょせんは他人。妻であっても同じような思いだったが、裏を返せば、相手も自分に対して同じことを感じているということだ。
カップルが別れていくのは、ここに原因があるのではないか。自分が可愛いという思いは、ジレンマを感じながらでも耐えることができる。しかし、相手も同じことを考えているのではないかと思った瞬間に、もう相手を見ることができなくなる。自分が可愛いという思いだけが残ってしまい、交際を続けていくことなどできなくなる。
夫婦であればなおのこと、ずっと一緒に、半永久的に一緒にいる相手なのだ。あまり相手の考えを読もうとしない方がいいかも知れない。
――知らぬが仏――
という言葉があるがまさしくその通り、自分だけが可愛いという意識に留めておけば、相手との仲がギクシャクしてくることもない。自分が下手に動くとまずいことを知るべきである。
香織が、五郎の部屋に来たことはなかった。香織自身が五郎の部屋に行きたいと望むことがなかったし、五郎も香織を自分の部屋に招こうとはしなかった。それが暗黙の了解となっていたが、それには理由があった。五郎の方に香織をなるべく自分の部屋に招きたくないという理由があったのだ。
馴染みのコーヒー専門店で相手をしてくれる女の子が、どうやら、同じコーポに住んでいるのが分かり、しかも、隣だということにずっと気付かないでいたのは、香織と知り合って、帰宅が遅くなったからだった。朝の通勤時間も、彼女とは合わない。彼女は昼前から出かけていくので、五郎が出勤する時間は、部屋にいるのだった。
それがふとしたことで顔を合わせ、彼女のホッとした表情を見た時、何か懐かしい思いを感じたのだが、それがずっと以前に感じた懐かしさだったのか、最近感じた懐かしさだったのか、ハッキリとしてこなかった。
「おはようございます」
「おはようございます」
お互いほぼ同時に声を掛けた。その日はちょうどゴミ出し日で、思わずゴミの袋を後ろに隠したのは照れ隠しだろうか。亭主が奥さんに頼まれて渋々ごみを出すのを見たことがあるが、自分が妻帯者だと勘違いされたくないという思いが働いたのも事実だ。
――彼女は、どう思っただろう?
妻帯者なら、家庭の匂いが漂わせているのを他の人に見られるのが嫌だという気持ちも分かる。ただ、独身の五郎は、妻帯者だと勘違いされることを嫌ったのだ。
ということは、
――彼女を意識しているということなのかな?
香織という女性が今の自分にはいる。間違いなく、香織が今までに付き合った女性の中でも最高だと言えるだろう。それなのに、他の女性を意識するというのは、香織とはいずれ別れが来て、落ち込んだとしても、復活してくれば、好きになれる女性がいるころが、安心感に繋がるとでも思ったのかも知れない。まだ、好きだという意識が芽生えているわけではないのに、まるで保険を掛けているようで本当は嫌なのだが、無意識という意味でも、男の性のようなものなのかも知れない。
その日は、話しらしい話しはまったくしていない。通勤時間はいつもギリギリなので、ゆっくり話をしている暇などなかったのだ。後ろ髪を引かれる思いで出勤するが、その日は彼女のことが頭から離れなかった。
夕方になると、香織と会う約束をしていた。それを午前中くらいまで忘れていたほど、彼女のことを気にしていたようだ。考えてみれば、最初に気にし始めたのは、香織よりも最初だった。香織のことが気になり始めると、他のことは忘れてしまい、香織のことで頭がいっぱいになっていた。
それがどうしたことか、隣に住んでいることが分かると、気になるようになってしまったようで、もし、彼女が隣ではなければ、気にしなかったかも知れない。ただ、そう思うと、余計に彼女のことが気になってくるようになった。
彼女はどこにでもいるような普通の女性である。香織の印象が強すぎるので、平凡に見えるのかも知れないが、平凡が新鮮だと感じたのも、久しぶりのことだった。刺激の強さを新鮮だと感じていた時期があったが、本当はそちらの方が、十分変わっているのかも知れない。