墓標の捨て台詞
ひょっとすると、五郎は意識していないが、香織に考えが似た人がいて、それを意識していることで、五郎を何とか自分に向けさせるように仕向けているかのようにも見える。自分の後ろの誰かを見ているということは、それだけ、五郎だけを見つめていたという考えの表れではないかと思うのだった。
そう思ってくると、今度は香織の後ろにも誰かが見えてくる気がした。落ち着いた物腰の男性で、ただ、お人よしなのか、すぐに損を請け負ってしまうような男性であるのかも知れない。
香織の後ろに見えるのはもちろん男性だった。ベッドの中でもその男性を意識せざる負えないことでのプレッシャーのようなものがあり、どうしても自分と比較してしまう。相手の男性は自分がいくら追いつこうとしても追いつくことができず、平行線を描いているようだ。
――まさか、もう一人の僕?
という発想は突飛すぎて、考えてしまったことに、恥の二文字を感じてしまう。この発想は誰にも言えないが、当の本人の香織には分かったことも知れない。
香織の身体は、今までに付き合った女性の中で一番しなやかだった。女性らしい身体だと言ってもいいだろう。抱きしめると、軽く押し返してくる感覚があり、さらには肌の毛根が身体に吸い付いてくるかのような感触に、五郎の身体は悲鳴をあげる。
――悦びの悲鳴など、初めてだな――
今までは耐えれたものを耐えれなくなるが、耐えること自体、バカバカしく感じられる。身体を解放し、その場の現状に身を任せれば、いつだって悦びの悲鳴をあげることができるのではないかと思うのだった。
しなやかな身体がまとわりついてくるのを感じていると、不思議と思い出すのが過去のことだ。過去のことと言っても過去の女性たちのことではなく、さらなる昔、思い出そうとしても平常時では思い出せないほどの遠い昔の、物心ついたかついてないかくらいの頃のことである。
母親に連れられて、ベビーカーに乗っていた記憶など、普通ならあるはずがない。きっとおしゃぶりを咥えていて、目の前にあるものすべてに対して、興味のようなものを抱いていたのだろう。
無邪気な時期を思い出すことは、今とあまりにも違い過ぎることでできないのだと思っていた。ひょっとすると、あの頃の方が頭は回転していて、物心がついたことから始まる意識が、自分にとっての意識だと錯覚しているだけなのかも知れない。もしそうだとすれば、物心のつく前だけが、唯一人生をやり直せる機会を与えられたのかも知れないと思う。
「人生をもう一度やり直せたらな」
という人もいるが、必ずしも五郎は、そうは思わない。やり直すには、どの場面からという緻密な計算がなければ、難しいだろう。いくら、やり直したい場所に戻ったとしても、同じことを繰り返さないとも限らないからだ。
たとえば自分にとって運命を変えた人がいたとして、その人と出会ってからの人生のやり直しであれば、また同じことをしそうである。根本から変えたいのであれば、出会う前に戻る必要があるのではないだろうか。
それを思うと、過去に戻ること自体が、滑稽ではないかとも思えてくる。どの時代に戻ったとしても、そこから無数に広がっているはずの運命を、いかに手繰り寄せたとしても、結局は似たようなところに戻ってくるのではないだろうか。やり直すことができないのは物理的な発想でも当たり前のことだが、それ以上に矛盾を解消できない限り、してはいけないことではないかと思うのだった。
「違った人生を歩んだとしても、結局は僕たちって出会ったかも知れないね」
と、和代に似たようなセリフを吐いたことがあった。
その時のシチュエーションまでは覚えていないが、どんなシチュエーションでも、発想が同じところになってしまう。これこそ、その人が超えることのできない領域があり、その仲をグルグル回っているだけなのかも知れない。考え事をしていて堂々巡りを繰り返すのは、モノには必ず限界があるということの証明だと思っていたが、その最たる例が自分なのだろう。
香織もどこか似たような考え方を持っている。五郎との決定的な違いは、香織には、どこか投げやりなところがあり、他の人から見ると、まったく似ていない二人で、火に油を注ぐようなものだと思っている人もいるかも知れない。
「他人は他人よ」
と香織はいうが、まさしくその通りだ。
今まで付き合った女性の中で一番気持ちが通じ合えたと思うのは、実は和代だった。最初、別れた時の辛さを思い出すと、気持ちが通じ合っていなかったからだと思ったが、その後に付き合った女性を思い出すと、和代から比べて、どうしても他人に思えて仕方がなかった。
ただ、ツーカーの仲だったのは誰かというと、それは妻だった敦美だった。彼女は、何も言わなくとも、五郎のことを分かってくれていたし、却ってそこには言葉がいらないというべき空間が存在していた。
気持ちが通じ合っているのと、ツーカーの仲との違いは、気持ちが通じ合っているのは、気持ち的にお互いが平等な位置にいることが分かっている時で、ツーカーの仲であると感じたのは、男が精神的な優位に立っていて、女性は三行半を決め込んでいるパターンが多いのだろう。
五郎は今までに付き合ってきた女性のことをいろいろ思い出していた。初めて付き合ったのは、中学の頃だっただろう。付き合ったというにはあまりにもおこがましいが、それこそままごとの延長のようだった。
相手のことがどれほど好きなのかも分からずに、愛しているという言葉を使ってしまった自分が恥かしい。ただ思春期の感情は、何事も過大に表現され、過大な表現が許される時期でもあっただろう。
女性と付き合うことで、今まで見えていなかったものまでもが見えるようになっていた。それは、見えなかったものが見えてきた気がして、見えなかったものすべてがバラ色だったことを意味している。
だからこそ、女性と付き合うことは新鮮で、今まで知らなかったことを知ることができる絶好の機会でもあった。その中で女性の身体という知らなかったものを知った瞬間、神秘の扉を初めて自らで開いた気がしてくる。それが男として生まれてきたことを喜びに変える瞬間だと思えていた。
「五郎さんは、楽天的よね」
和代に言われたことがあった。
何を持って楽天的だというのか分からなかったが。きっと、自分の気持ちが相手にも分かり、同じく相手の気持ちが分かるところから感じたことなのかも知れない。
「私ね。エッチな顔立ちでしょう? だから、男性からナンパされることも多いの」
それは認めないわけにはいかない。五郎が見てもそう思うし、今までの自分であれば、好きになったりするのはおろか、見向きのしなかったに違いない。香織には、エッチなイメージ以外に何か感じるものがあるから、関係を持ってしまったのだし、関係を持ってしまったことに後悔もしていない。