墓標の捨て台詞
店のマスターは、どちらかというと二人の間に位置しているのかも知れない。喫茶店を始める前はサラリーマンだったということで、どちらの話も分かるのは。マスターだけなのだ。
「僕は、まだまだサラリーマンに近いかも知れないな」
店を開店してから、十年近くが経つというのだが、それでも、今でもサラリーマン時代の夢を見るという。サラリーマンだった頃が、懐かしく感じるのは、店を切り盛りしなければいけない立場ではあるが、サラリーマンを辞めた時のことを思い出すからだという。
「サラリーマンを辞めたこと、後悔しているのかも知れないな」
普通は後悔していても、他人には言わないのが普通だろう、それなのに言うということは、それだけ自戒の念が強いのかも知れない。
「これでもサラリーマン時代は、重要な仕事を任されていたりしたんですよ:
と、サラリと言ってのけるが、五郎にはサラリと言えるほど、まだサラリーマンを充実したものにできていない。
「サラリーマンに充実なんてないんだよ」
マスターはこれも簡単に言うが、何か悟ったものでもあるのだろうか。
この店には、サラリーマン、OLが結構来ている。五郎もその一人であるが、ほとんどが単独客なのだが、中には、その中で仲良くなる人もいたりする。皆誰もが自分の世界を持っていて、明らかに悲哀を感じさせる人もいる。
店の女の子の家が近いということもあってか、この店に通う楽しみが増えてきた。実際に家の近くで会ったのは一度きりだったが、それでも何かしら楽しみを感じさせる予感があった。
ただ、五郎は最近、違う女性が気になり始めた。
その人は、いつも窓際のテーブル席に一人でいる。
この店は、ほとんどが馴染みの人が多いからか、それぞれに自分の指定席のようなものを持っている。五郎も、カウンターの一番奥を指定席だと思っている。常連の客は、決まった時間に店に来るからだろうか、その人の指定席が他の人で埋まっているということはほとんどない。同じ時間にバッティングするわけではないのに、偶然というよりも、それぞれの個性が違っていることを示しているのだろう。
その女性は、いつも外を見ている。
――何が見えるんだろう?
何を見ているのかということよりも何が見えるかという方が気になっている。実際に見えているもの以外の何かが、その人の目に浮かんでいるように思えてならなかった。
――瞳の色が違うようだ――
黒目ではないが、綺麗に見えている。外国人のような目にも見えるが、日本人であることは間違いない。五郎は、外国人の女性は、どうにも好きになれないことから、彼女が日本人だということを確信している。
――僕は、彼女を好きになりかかっているのか?
と、一度感じてしまうと、そのことが気になって仕方がない。
今までに一目惚れが一度、和代に対してだけであったが、付き合ってきた他の女性に対して、好きになりかかっている意識はあっても、そのことをいちいち自問自答することはなかった。人を好きになるのは、自然なことで、いちいち意識するものではないからだ。
他の常連客は、一人でいることが多いが、まわりを一切気にしていないわけではない。自分のスペースが決まっていて、その領域には、誰も侵入することはできないが、そのまわりを気にしている様子は時々感じることができる。こうしてまわりを観察している五郎も同じことであった。多少なりともまわりが気になってしまうのは、自分の世界を持っている人にとっては必然なことではないだろうか。そう思うと、その女性は、この場の中にいても、異質なイメージを醸し出していた。
五郎は、気が付けば、いつも彼女を気にしていた。最初は何も気付いていない様子だった彼女も、五郎の視線に一度気が付いてしまうと、今度は、必要以上に意識しているように思えた。それまでに見せたことのないソワソワした様子を見せるようになったからだ。
――元々、人を意識し始めると、取り乱してしまうところがあるのかも知れない――
だから、まわりを意識しないようにしていたわけではないだろうが、結果的にまわりを意識しないことでまわりから気配を消すことができていたのかも知れない。
この店の常連客は、自分の気配を消そうという意識はないのだろうが、まわりに意識させない雰囲気があった。無意識に、
――関わりたくない――
と、まわりの人に思わせる。ただ、まわりが皆同じ雰囲気なので、却って異様な雰囲気を店全体に漂わせているのかも知れない。それだけ、個性が強い連中の集まりと言えばそれまでなのだろうが、人に構いたくないという思いは共有していて、一見さんには、この雰囲気には耐えられないだろう。
五郎は、その女性のことがどうしても気になって仕方がない。ソワソワしている様子は、五郎を怖がっているわけではない。五郎を意識し始めた証拠なのだ。期待と不安が表に出初めて、その意識が強いことから、自分でもどうしていいのか分からなくなっているのではないだろうか。
――今までにこんな感情が浮かんだことなかった――
と、心の中で思っているのかも知れない。
五郎の中に今までに付き合った女性の面影が浮かんできては消えていったが、彼女はその中の誰でもないように思えた。
ただ、その中でも、一番「大人のオンナ」を感じさせる。それは妖艶な雰囲気を前面に押し出していた「友達の敦美」とも、違った雰囲気である。妖艶さだけではない大人の女、それは五郎には、まだまだ遠い感覚でしか見えていなかった。
「こんにちは」
思い切って話しかけてみた。シカトされるのではないかとドキドキしたが、彼女は、五郎の顔を見て、ニッコリと微笑んだ。五郎もニッコリと補助笑み返すが、笑みはやはり引きつっていた。
「こんにちは。あなた、時々見かけるわね」
どうやら気にしてくれているようだ。
「はい、気にされていてくださったんですね」
「ええ、あなたは、好感が持てる気がしたの。他の人とは目が違うような気がしてね」
「どういう風にですか?」
「他の人は、私を見て少しは気になるようなんだけども、目を離す時はアッサリなのよね。でもあなたの場合は、どこか目を離すのに未練を感じているようで、そこがわいいというか、私には気になるところなのよね」
何が幸いするか分からない。あまり視力がよくない五郎は、どうしても相手を見つめると、視線を外す時に躊躇してしまう。目を離した瞬間に相手がこちらを見ていたらどうしようという危惧が頭を過ぎるからだった。だが、彼女の場合は、そんな五郎を可愛いとまでいう。ちょっと他の人にはない性格が、五郎には新鮮だった。
「気に入ってもらっていると思っていいんですか?」
「私は気に入っているつもりだわよ。でもあなたはどうなのかしら? ただの好奇心からなのかしら?」
口元が歪んだが、その時初めて彼女の口紅の濃さにドキッとした。口を濡らしているのは、真っ赤に彩られた情熱を思い起こさせた。
「そうかも知れませんね」
と、おどけた調子で言うと、
「まあ、ハッキリ言うのね。でも、そのハッキリしたところが好きよ」
彼女は、とにかくハッキリしているのが好きなようだ。