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墓標の捨て台詞

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 敦美にも同じように終わりなどないと思っていたとしても、もし直接的に今まで感じたことのない厳しい現実をどこかで感じたとすれば、その矛先は五郎に向けられる。我に返って前を見た時、五郎の甘さが露見していたとすれば、初めて、今まで自分の前にいたと思っていた五郎を後ろに感じるのかも知れない。前ばかり見ていることに満足している五郎は、果たして敦美の開き直りにも似た心変りを感じてくれているのだと思っている敦美との間に、溝ができてしまったのかも知れない。
 離婚にまで至ってしまったが、離婚理由を最初は、敦美は何も話してくれなかった。問い詰めようとすると。
「自分の胸に手を当てて聞いてみなさいよ」
 と、それまでに見たこともないような形相で言われるばかりだった。鬼のような形相とまでは言わないが、初めて見る恐喝的な態度に、五郎は完全にビビッてしまっていた。
 とはいえ、まったく身に覚えのないものを、どうしろというのか、五郎はそれ以上考えが浮かばない。何かを考えようとしても、堂々巡りを繰り返すばかりで、先に考えが及ばない。頭がリラックスするようにと部屋の中にはハーブや紅茶の香りが充満しているが、焦ってくると、鬱陶しい以外の何者でもないのだ。
 後になって分かったことだが。敦美は五郎の浮気を疑っていたようだ。敦美もそれならそうと言えばいいものを、自分の口から言うことを躊躇っている。言ってしまえば、自分が責めたてている立場で、ヒステリーを起こしていることを自らが認めることになってしまう。それを嫌ったのだ。
 敦美と顔を合わせるのが怖い。何をどう話していいのか分からない。
――今まで、一番話しやすいと思ってくれていたであろう人が、今は、自分が一番話しかけにくい相手になってしまった――
 状況が違えば、立場の違いによって、ここまで精神的に変わってくるものなのかと、五郎が感じたのだ。
 最近、敦美に疑われるようなことをしたことがあったかを思い出していた。
 元々、五郎の目はすぐに他の女性を捉えてしまうことを、敦美は知っていた。知っていて、
「しょうがないわね」
 と、ため息交じりの苦笑いを浮かべることで、許してくれていたところがあった。
――それに甘えていたのか?
 だからこそ、敦美が自分の浮気を疑うなど、ありえないとまで思っていたのだ。
 別れを切り出された時に、ハッと思ったのは、自分があまり敦美の過去について知らないということだった。
 今まで男性と付き合ったことがなくて、男は自分が最初だということ、友達も少なく、いつも一人でいるか、初めて知り合ったきっかけになった女の子と一緒にいるかのどちらかだった。
 彼女とは、五郎が想像したように主従関係のようなものがあった、もちろんそんなに強いものではなかったので、お互いに彼氏ができれば、そっちを優先すればいいという話をしていたという、
――そういえば、彼女は彼氏がいるのに、敦美に対してまだ主従関係を続けていたような気がするな――
 と感じたが、それなのに、敦美が先に結婚してしまうと、急に音沙汰がなくなったという。敦美が連絡を取っても、無しのつぶて、何も反応が返ってこなかったという。
「彼女、自分勝手なのよね」
 初めて、敦美が彼女に対して、悪口を言った。ただ、それもその時が最初で最後だったのだ。
 そんな彼女が、また敦美に接近するようになった。それが離婚前夜だったのだ、
 それまで何も不自然なところのなかった敦美の様子が少しずつ変わっていった。その時に急に五郎は、敦美のよそよそしさを感じたのだ。それはまるでお互いに他人同士であるかのような感覚に、五郎まで陥ってしまったかのようで、何が原因なのか、まったく分からなかった。
 ひょっとして、その時に、友達の接近を五郎が察知していれば、どうだっただろう?
 夫婦間での会話にぎこちなさをもっと早く気付いたかも知れない。ただ。早く気付いただけで、何の解決にもなっていない。
 友達がここまで性悪だと分かっていれば、さっさと二人を引き裂いていた方がよかっただろう。敦美に対して、再三、五郎の悪口を言っていたようだ。
――油断ならない人だ。どこか信用できないところがある――
 などと言われている。敦美としても、最初は聞き流していたのかも知れないが、あまりしつこく言われると、気にしないわけにはいかない。
 離婚後、友達が五郎にモーションを掛けてきたことがあった。離婚してからの何とも言えない寂しさに、彼女の口車に乗ってしまい、関係を結んでしまった。情けない話、その時は友達を、
――この寂しさから救ってくれる救世主だ――
 とさえ思ったほどだ。
 まさか、相手を孤独にして、自分のものにしようだなどと思っているなど、想像もつかない。他にはそんなオンナはいっぱいいるのかも知れないが、まさか自分のまわりにいるなどということを想像もしていなかった。
 妖艶な女性は、今までに付き合ったこともない、和代と別れてから、寂しさのせいもあって、風俗に通ったことがあったが、その時の自分の虚しさ、そして相手をしてくれる女性の暖かさは、それまでに感じたことのないものだった、しかも妖艶な雰囲気は淫靡な匂いを運んでくる。こんな世界に誘ってくれたのは、誰でもないもう一人の自分だった。
 その時のことを思い出していた。風俗に通ったからこそ、早く立ち直れるきっかけだったと五郎は思う。相手を好きになってもどうしようもないのが分かっているので、短いその時間だけが、自分のものである。今度も同じような思いが頭を駆け巡り、二人でいない間の生活が、孤独ではない新たな自分の世界でもあるかのように思えてきたのだ。
――一人でいることは、決して孤独ではないんだ――
 一人と孤独を一緒の感覚にしてしまったことが、敦美の友達に誘惑された最大の原因だった。
――誘惑されるのも悪くないな――
 自分のことを気に入ってくれているから誘惑されるのだと思っていた。彼女には敦美にはないものがたくさんあった。その中で一番は、情熱であろう。
 五郎に対して敦美は完全に受け身だったが、別れを決意してからは、完全に主導権が握られっぱなしであった。逆に友達は、五郎に対して受け身どころか、自分から積極的だ。それは彼女が五郎の性格を分かっていて、どうすれば、自分のものにできるかが分かってきているからに違いない。
「五郎さんは、本当に誰かと浮気なんてしていないわよね?」
 と聞かれた。
「どうしてそんなことを聞くんだい?」
 不審に思った五郎が聞いてみた、
「いえ、敦美が何となくそんなことを言っていたからね」
「敦美が?」
――なるほど、そういうことか――
 何か変だと思ったら、浮気を疑われていたわけだ。いくら敦美に問いただしても教えてくれないことを、どうして彼女が知っているのか? 考えられるのは二つだけだった。
 一つは。彼女が敦美に吹き込んだか、もう一つは敦美と、彼女は、普通の感覚では想像もつかないような関係にあるということである。
――想像もつかない感覚。いやらしい――
 想像してしまった自分に嫌悪を感じる。敦美はいったい、彼女とどんな話をしていたというのだろう?
作品名:墓標の捨て台詞 作家名:森本晃次