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墓標の捨て台詞

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 迫ってくる天井を感じた時、どうして和代の夢などを見たのかを考えてみた。
「そう言えば、最近アルコールを口にしていなかったな」
 和代と別れることになってから、五郎は酒の量が増えた。酒に溺れたと言ってもいい。仕事だけは真面目にこなしていたが、仕事が終わってからは、毎日のように居酒屋に入り浸っていたのだ、
 荒れた生活が二月ほど続いたが、居酒屋に立ち寄らなくなってからも、しばらくは、毎日が放心状態だった。そこからどうやって立ち直ったのか、自分でも分からなかった。
 そんな嫌な思い出を、一旦遡ってから、今に至る過程を、一気に思い出そうとしたのだった。
 思い出してしまうと、今度は頭痛がしてきた。目が覚めた時にも頭痛に襲われるが、その頭痛とは異質なものだった。目が覚めた時は、夢の影響からか、眠りの浅さが頭痛を呼んだ。
 だが、思い出しながら湧き上がってきた頭痛は、不安からくるものに思えてならない。別れの瞬間もショックだったが、荒れた生活を今になって思い出すと、不安だらけだった自分を一番強く想い出す。
 思い出してくると汗を掻く。焦りのような汗だ。汗を掻いてくると、不安だった思いがさらに強く思い出される。
 夏の夜は、湿気が多い。特に温泉宿では、露天風呂の湿気が夜になると充満してくるように思えてくるのだ。
 その日も最初眠れなかったが、湿気が影響していた。そして、見てしまった情事が頭から離れず、ドキドキして眠れなかった。
 それは、まるでウブな頃の自分を思い出したかのようだった。
 学生の頃までの自分を思い出すところまで、眠る前に思い出していたのかも知れない。だから、夢を見ている時に、一旦遡った思い出から、だんだん、現在の自分へと移り変わる思い出が、走馬灯のように見えていて、夢に見てしまったのだろう。本当はすべての夢を見ていたはずなのに、インパクトの一番強い別れのシーンだけが、夢の中の記憶として残ってしまったに違いない。
 起きてから完全に目が覚めるまで、荒れていた生活を思い出してしまったのは、目が覚めてから、完全に荒れた生活を忘れてしまいたいという思いが働いたからではないだろうか。
 それだけ、荒れていた生活には不安感ばかりがあったのだ。
 それから、再度眠りに就いたが、時間を見れば三時過ぎだった。こんな時間に目が覚めることなどあまりないだけに、頭痛も致し方ないのだと想っていた。
 再度眠りに就いた時も、ハッキリと眠りに落ちていく感覚はなかった。気が付いたら、皆起きる時間で、さすがに、遅くまで飲んでいた人たちは、かなり二日酔いできつそうだったが、さほどアルコールを飲んでいない五郎までが、きつそうにしているのを見ると他の人から、
「そんなに飲みました?」
「目にクマができているようですよ」
 と心配されたが、
「大丈夫です」
 と、答えて、顔を洗って服を着替えれば、いつもの自分に戻っていた。夢の内容も完全に消えたわけではないが、忘れてしまったかのように、不安感はもう残っていなかった。
 二日目は観光中心で、夕方には戻るということで、その間に完全に体調を戻しておかなければならない。なぜなら、敦美とのデートの約束をしているからで、まさか、旅行中に以前付き合っていた女性を思い出すなど想像もしていなかった五郎は、精神的に、完全に敦美だけを想っていた旅行前にまで戻しておかなければいけなかった。
 待ち合わせは、夕方五時にしていた。スケジュール的に、旅行から帰ってくる時間を考えると、余裕に近い時間だと思っていたのだが、それが少しままならない時間となっていた。
 他の人が、帰りに寄りたいところがあるということで、一人の提案から、帰ってくる途中で、寄り道をすることになったが。五郎だけ、
「すみません。ちょっと野暮用があるので。申し訳ないんですが、先に帰ってよろしいでしょうか?」
 と、幹事に話をして、一人新幹線に乗って帰ってきたのだ。
 少しだけ遅れたかも知れない。敦美は、すでに待っていてくれた。敦美が五郎を見つめる目は、最初に見た雰囲気とは違っていた。
 いつも自信なさげに、俯き加減だったので、あまり表情をマジマジと見たことはなかったが、目はほっそりとしていて、どこを見ているのか分からず、焦点が合っていないかのように見えていた。それなのに、待ってくれていた時の敦美の表情は目を見開いていた。ただ、その眼は驚きのために開いていたわけではない。見開いた目のまま、表情が綻んで、喜んでいるように見える。
――待ちわびていてくれたんだ――
 なかなか現れない五郎に不安を感じていたのだろう。やっと現れたことで、それまで蓄積していた不安感で硬直していた表情を一気に和らげたのかも知れない。
 待ちわびていた相手が現れたことで解放された感情は、普段から気持ちを抑えている人にはひとしおだったに違いない。
「ごめんね。遅くなった。待ったかい?」
 五郎の親しみを込めた表情は、自分でも久しぶりだと思った。和代と別れてからしばらくは女性と付き合うことを自分の中で拒否していた。それは、別れが突然で、ショックが大きかっただけではなく、女性に対して拒否の感覚があったからだ。そんな五郎を好きになる女性がいるはずもなく、そのまま一人でいることに慣れてしまっていた。
「いいえ、そんなには」
 遅れたと言っても、十分ほど、ただその十分が五郎自身には許せないところがあった。
――時間という意味ではないんだ――
 相手を待たせることで、相手に不安感を与えてしまったことへの自責の念が強い。今までに友達と待ち合わせをしても、約束の時間から遅れたことなどないので、相手を不安に思わせることはなかった。
 集団で、待ち合わせた時は、誰か必ず遅れてくる人がいる。それでも待っているのは一人ではないので、不安に感じることはない。遅れる人間がそこまで分かっているとは思えないが、確信犯であることに違いはない。なぜなら、遅れてくるのは、いつも同じ人間だからだ。
「もう、しょうがないな」
 という一言で友達の間では許されることなのだ。
 敦美は、安心感からなのか、続いている緊張感からなのか、顔が真っ赤になっていた。耳たぶまで真っ赤になっているのだから、相当顔が熱くなっているに違いない。
「二人で会うのは初めてですね」
「ええ、緊張しています」
 ヒラヒラが目立つワンピースのせいか、爽やかさが目立って見える。表情も硬直はしているが、こわばった表情に緩やかな風が通り抜けたような雰囲気を感じさせる。
「今日の日のために、私お店を検索してきたんですよ」
 と言って、五郎を引っ張っていく。
 引っ込み思案な性格に見えるが、実際には行動力があって、率先できる能力を持っているのではないかと思った。今のような性格になったのは、過去に何かあったか、一番近しい友達に原因があるのではないかと思ったのだ。
――そういえば、同じ病院の同僚の人とは、学生時代から仲が良かったって言ってたな――
 友達の影響が大きいような気がしてきた。確かに友達といる時、敦美はいつも彼女の後ろにいて、自分から喋ろうとしない。主導権を握られていて、意見をいうことも控えている。
作品名:墓標の捨て台詞 作家名:森本晃次