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墓標の捨て台詞

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 今日の宿の宿泊客は、五郎の会社の人間だけだ。ということは、二人とも知っている相手であることは間違いない。そう思うと五郎も、これから繰り広げられる目の前の光景に、胸踊らさずにはいられなかった。
 しかし、その一方で、こんな出歯が目のような状況に、自己嫌悪を覚えていた。しかし、すぐに興奮が頭を擡げ、それぞれが頭の中で競い合っていた。競い合う感覚が短くなり、結局は、興奮が優ることになった。自己嫌悪はいずれ起こるかも知れないと思いながら、今は、この状況に心身を任せることにした。
 女が気付いているのに、男は気付いていないようだった。女も男に話をする気はなさそうで、相手はどうあれ、自分の快感を邪魔されたくないという思いから、相手に余計なことを言わないようにしたのかも知れない。下手に知ってしまって、手加減されては、せっかく盛り上がった気持ちが中途半端で終わってしまう。それだけは辛いことだった。
 まさか最後まですることはないだろうが、次第に女の甘い吐息が聞こえてきた。その前の押し殺すような声での吐息の方が、五郎には興奮があった。だが、男は、甘い吐息の方が好きなようで、責め方も執拗になっていく。見ているだけでたまらなくなってきた五郎だが、吐息の渦に男の声も混じり合い、
――本当に見てはいけないものを見ているのだ――
 という思いは、五郎を有頂天にさせた。
 有頂天な気持ちにはなったが、それ以降の状態を見ることはできなかった。見たのかも知れないが、記憶にはない。気が付けば、しゃがみこんでいて、どれほどの時間が経ったのか分からないが、さっきまで繰り広げられていた情事は、綺麗に消えていた。
 軽い頭痛に襲われたが、それは浅い眠りから覚めた時の痛みだった。知らぬ間に治っているような痛みである。
 五郎は、起き上がると、時計を見た。表に出てから、十五分ほどしか経っていない。少なくとも、先ほどの情事を見ている間だけでも、十分近くは経っていたように感じたのに、気絶していた時間がその差だとすると、五分ほどでしかない。それはあまりにも短い間隔でしかなかったのだ。
 しばし、落ち着いてから、部屋に戻った。まだ宴会は続いているようで、誰も部屋に戻ってきている人はいない。五郎の酔いはすでに覚めていた。今さら、宴会場に顔を出す気にはなれない。
 布団はすでに敷かれていて、両腕を頭の後ろで組むようにしながら、腕を枕にして、仰向けになって天井を見ていた。
――天井の模様というのは、どうしてあんなに複雑に見えるのだろう?
 和風の天井は、まるで年輪のような曲線が、波状に描かれているが。洋風なら、複数の縦横の線で区切られた中に、さらに幾何学模様が張り巡らされているかのような想像が頭を過ぎる、
――まるで、落ちてきそうだな――
 と思うと、思わず目が細くなってくるのを感じた。
 眠気というよりも、目の錯覚から、遠近感が取れなくなっている。実は天井はもっと高いはずなのに、落ちてきそうあ不安感から、逆に近くであってほしいという思いにさせられるのかも知れない。
 宴会場から、笑い声が聞こえた。最初からかすかに聞こえていたが、一気に爆発したような笑い声が聞こえたかとおもうと、すぐに静かになる。耳鳴りが、ザワザワと聞こえてくると、今度は静寂の中で、天井が歪んで見えてくるようだった。
 またしても睡魔が襲ってくる。
 耳鳴りの奥で聞こえる風の通るような音は、海に行った時に巻貝を耳にあてた時を思い出した。
「そういえば、あれから、海が苦手になったんだよな」
 耳に何かが侵入したのかも知れない。風が通り抜ける音は、鼓膜を刺激し、それ以上に平衡感覚を奪っていく。
 耳の奥に平衡感覚を司る神経があるというのも頷けるというものだ。耳が人間の機関の中でも、一番敏感なうちに入るのだろう。人間の五感のうちでもある耳は、それほど大切なところなのだ。
 耳の感覚がマヒしてきて、痛みや違和感が減ってくると、本当に眠ってしまいそうであった。
――眠ってはいけない――
 自分の中の誰かが自分に話しかける。何がいけないというのか、眠い時に寝るというのは、五郎の教訓のようなものだった。
 眠い時に寝ないと、結局眠れなくなるという経験を今までに何度もしている。急に仕事が入って眠ることができなくなったり、眠ろうと意識が強すぎて、起きてからの過酷な仕事が気になって眠れなかったこと様々ではあるが、眠い時に眠らないと眠ってはいけない時間帯が待っているというのは、今までの経験から頭にこびりついていたのだ。
 眠ってはいけないとは、どうせ眠れないのであれば、甘い考えを持つだけ、後で自分がきついだけだということを意味しているのかも知れない。
 海に行くと子供の頃を思い出すのか、すぐに熱を出してしまうような気持ちと同じなのではないだろうか、
 睡魔と、眠ってはいけないという声はどちらが強いかといえば、やはり圧倒的に睡魔が強い。それでも、完全に眠りに入るかと思われそうな時、急に目が覚めて、それ以上眠れなくなる。
 睡魔の堂々巡りを繰り返しているのだ。辛さと気になっている気持ちとがぶつかり合い、綱引きの中で、劣勢に立たされている方が、寸前でその力を発揮する。それが睡魔を押し返す力になるのだ。
 耳鳴りが幻影に変わる時、自分が眠ってしまっていたことに気付いた。目が覚めたのが、自分のいびきによるものだったりする。その時、少し淫らな夢を見ていたという感覚で、額に掻いた汗が気持ち悪く、背中に纏わりついた汗の冷たさは、気持ち悪さを通り越して、気だるさすら思い起こさせる。
 気だるさには汗が付きものだが、流れ落ちる際の気持ち悪さが、たまに快感に変わることがある。その快感が睡魔を呼び起こし、眠りへといざなう結果となるのだった。
 どれくらいの時間が経ったのだろう。三人ほどは戻ってきて、布団に入って寝ていたが、他の何人かはまだ宴会場で飲んでいたようだ。
 さすがに皆付き合えないということで戻ってきたのだろうが、宴会のあととはいえ、さすがにアルコールの匂いがすごかった。
 そんな中にいるのはつらいと思い、五郎は露天風呂に入りに行った。中には誰もおらず貸し切り状態だった。湯気の向こうに見える月には朧が掛かっているようで、少し大きく見えた。
 次第に酔いが冷めてくるのを感じたが、普段であれば、酔いが冷めてくれば寒気がしてくるのに、その日は温泉に浸かっていることで、寒気を感じずに済んだ。アルコールが程よく身体を駆け巡り、血行の良さも手伝って、毛根の間から温泉が入り込んでくるかのような不思議な感覚を覚えたのだった。
 温泉から上がって、そのまま床に就くと、今度こそ睡魔と意識が一致して、心地よい眠りに就くことができた。これも温泉の効用なのだろうか。
 夢の中で見たのは、忘れかけていた和代の面影だった。
 あれは、和代が五郎に別れを告げた日のことだった。
 まさか和代に別れを告げられるなど思いもよらず。しばらくは別れの言葉を聞かされても、自分に何が起こっているのかさえ分からなかった。
「もう、このあたりで別れましょう。考えてみれば、あなたとの付き合いは、最初から無理だったのよ?」
作品名:墓標の捨て台詞 作家名:森本晃次