墓標の捨て台詞
「いいと思います。ただ、お付き合いとなると、自分の立場が自分で納得がいくまでハッキリさせたくないんです。わがままだということは十分に分かっています。でも、あなたなら私のことを分かってくれるんじゃないって思っているのでお願いしているんです。もしこれが他の人だったら、最初からお断りしていると思います。これでも、まだご不満がありますか?」
まくしたてるように話す和代は、必死の形相に見えた。付き合っている既成事実だけなければそれでいいんだ。不満がないと言えばウソになるが、それで今は十分だと思った。
「分かりました。それだけで十分ですよ。これからが始まりなんだって思うようにします。だから、和代さんも、僕と同じように思っていてください」
「ご納得いただいて嬉しいです。これからも宜しくお願いします」
形式的な会話に終始したが、下手にため口にならない方が、今はいいに違いない。お互いにそれでいいと思っていれば問題はない。和代も、五郎も最初の段階を超えただけのことだった。
そのことを毎日顔を合わせているうちに気付くようになっていった。
和代はあくまで会社では、冷静な顔をしている。心の中も冷静に違いない。だが、五郎の心はそうはいかなかった。目は和代に向いて離れない。ひと時も目を離すのが怖い気がするくらいだ。他の人と話をしている和代の声でも聞こえてくれば、心臓がドキドキ早鐘を打っているかのようだった。
――僕がここまで人を好きになるなんて思わなかった――
この思いがそのまま「一目惚れ」という感覚に結びついているのかも知れない。しかも社内恋愛という禁断のイメージの強い恋である。
しかも、和代にしてみれば、これが二度目の社内恋愛、付き合っているとは言い切れない間柄ではあるが、まわりから見れば、正真正銘の交際にしか見えないだろう。
和代が冷静でいればいるほど、五郎は、和代が気になって仕方がない。すでに仕事が手につかない状況は迎えていて。和代からも、
「ちゃんと仕事はしてるの?」
「ああ、大丈夫さ」
と、最初の頃は、和代がそばにいると思うだけで、仕事がはかどると思っていたのに、いつの間にか、まったく違う感覚に襲われていたのだ。
――何でこんなことになったんだ?
きっと、人を本当に好きになったことがなかったからなのかも知れない。これが人を好きになるということなのだとすれば、少し五郎には、試練の道であることには違いない。
社内恋愛というのがどういうものであるかというのは、ドラマや映画で見たもののイメージしかないが、最後は悲惨な結末を迎えることが多いだけに、自分は社内恋愛には足を踏み入れないようにしようという思いがあった、また、踏み入れないという自信もあったのだ。
一目惚れとは言いながら、本当に和代が自分の本当に好きなタイプなのかと聞かれると、ハッキリとそうだとは答えられない。
このままだと、自分が会社の中での立場を危うくしてしまうのではないかという危惧が付きまとう。
和代を見ていると、三分の一に感じることがあった。大きさという意味ではなく、性格のことだった。
和代が五郎に見せる面、そして、五郎の知らない横田に見せていた一面、そして、和代自身が誰にも見せない一面である。五郎は和代のことをすべて知ったとしても、それは自分に対して見せる部分でしかないところなのだ。
他の人は、この人にだけしか見せない部分というのを明確に意識しているものだろうか? 五郎も確かに
「この人にだけしか見せないところがある」
という部分を持っていたりするが、だからと言って絶対にその人にだけしか見せない部分を作ることは、かなり難しい。思うことはできても、実際に実現は難しいのかも知れない。
今まで五郎も、他の人で、
「この態度は自分にしか見せていないものなのだ」
と思ったことがある。確か小学生の頃の初恋の相手だったと思うが、それを思い出すことがたまにあった。
和代には複雑な思いがある。
三分の一の一つは確かに自分に対してのものだが。もう一つは、横田が今もまだ和代の中にいる証拠である。そして、和代独自の性格。好きになった相手なのだから、本当であれば、すべてを知りたいと思うのが当然である。
「私、昔の音楽が好きなの」
これは誰にも話したことのないことだという。これは和代の中にある三分の一のどれにあたるのだろう? 五郎は、和代独自の性格にあると思っている。この部分は、和代が誰にも譲れない部分であり、相手が横田でも五郎でも、入り込めない世界だった。
実際に付き合い始めてからの音楽の話になると、どうしても入り込めない領域を感じる。和代が、わざと話題を逸らしているように感じるくらいだ。
それを最初、自分の知らない部分である三分の二のどちらになるのか、分からなかった。横田と共有していた部分であれば、五郎との共有ではありえない。五郎との共有でなければ、五郎との共有でもありえない。すると、和代独自の世界ではないかという、変則的な消去法を頭に思い浮かべる。しかも、消去法も、かなり五郎にとって都合のいい考え方であることには違いないようだ。
和代の三分の一をあまり気にしないようにしようと思い始めると、和代から、お誘いがかかった。
「今度の日曜日。ドライブに連れて行ってくれませんか?」
「君から誘ってくれるというのも珍しいね」
「こんな日があってもいいでしょう?」
ニコニコとした屈託のない和代の笑顔に、五郎は同じ笑顔で返した。まったく同じというわけではないが、和代の笑顔を見慣れてきた今では、似たような笑顔を返せる自信がつくまでになっていたのだ。
日曜日は快晴で、雲一つないとはこのことだった。海岸べりのドライブは、最初に告白した時の夜の砂浜とは違い、海面から無数に照り返している光が眩しかったが、気にしないようにしていると、いつの間にか、海べりを抜けていた。
海を抜けると、今度は山間部に差し掛かる。夏が近づくと、山が涼しくていいのだが、今までに山に夏に出かけたことはあまりなかった。
深緑の中まで入り込むと、夏の虫が無数に声を立て、何事にも集中できなくなってしまいそうな気がするのだ。そのため、山に立ち寄ることはしなかった。
ただ、車で通りすぎる分には、涼しさが感じられ、最高のドライブであった。
「この先に大きな池があるの。行ってみませんか?」
「よし、分かった」
ハッキリと付き合い始めたわけではないのに、主導権は完全に五郎が握っていた。喋り方も、まるで亭主関白の気分で、和代はそれでも文句を言わず、まんざらでもない顔をしている。
和代に教えてもらった池というのは大きな森の中にあり、池の大きさも半端ではなかった。大きな池というよりも、小さな湖と言ってもいいくらいで、車を止めて歩いていくと、池のほとりにボート小屋があった。
「ボート乗りませんか?」
整備された公園ならまだしも、ここはボート小屋しかないような場所だった。しかし、ボートを借りている人が他に三組、上々の人気のようだ。
「まるでガイドブックに載っていない、穴場と言ったところでしょう?」
「なるほどそうだね。和代さんが教えてくれただけのことはある」