短編集39(過去作品)
これはケガをする時と違って、鬱状態の間、ずっと感じる匂いだった。ケガをした時というのは、一瞬息ができなくなる苦しさを味わうが、その瞬間だけなのだ。痛さがじんわりと残っていくが、苦しさは一瞬で終わってしまう。
しばらくすると、さっきの神様が現れた。
「ここは夢の世界ではないのですか?」
「ここは夢の世界に似ているが、夢の世界とは違うんじゃ。しいて言えば“空気が支配する世界”とでも言えばいいのかな?」
「空気が支配する世界? それで、何か匂いを感じるんですね。夢だったら感じないことを感じることができるような気がするんですよ」
「そうじゃな。ここの世界はわしが守っている世界じゃ。といっても、お前たちのいる世界のように、皆が同じ空間に存在する世界とは違う。どちらかというと夢の世界に近く、その世界は、その人一人のものなんじゃ」
「じゃあ、ここはあなただけの世界? どうして僕がここにいるんですか?」
「本当は見られてはいけない世界だったんだが、見られてしまったようだ。だが、お前は目が覚めればこの世界のことは忘れているはずだ。まあ入ってしまったものは仕方がないな」
「何か弊害が出るんですか?」
「今のわしの口からは何とも言えない。ただ、お前さんは不眠症になっておったので、それを治してやりにわしが現れたのだと思ってもらおうかな」
「不眠症? そんなことはないですよ。確かに体調も悪く病院に行ったりもしました。そして眠りが浅いということも自覚しているつもりでしたが、夢は見ていたはずなんですよ。内容だって何となくだけど覚えている。しかも今までよりも十分リアルに覚えているというのは、どういうわけですか?」
頭が混乱してきた。川端は自分が今どこにいて、誰に向って話しているか分かっているくせに、信じられないという思いを捨てきれず、ただ目の前の相手に質問をぶつけるしかなかった。しかしそれには答えずに、神様は淡々と続きを話し始める。
「夢の世界っていうのは、皆それぞれ個人のものだと思っているだろう? お前の夢に他の人が出てきたとしても、その人は夢の中では一人の登場人物であって、現実のその人ではない。つまり現実の世界のその人に夢の中の話をしてもまったく通じないことを知っているのと同じことだ」
「じゃあ、夢の世界と、現実の世界の間にもう一つ世界が存在しているってことなんですか?」
「そういうことだね。それがこの空気が支配する世界。その世界にいるのは、このわしなんだ。だから、お前にとっての空気の世界にいるのはわしだけということになる」
「僕の分身みたいですね」
「分身? そういうのが一番分かりやすいかな? もっと言えば守護霊のようなものかも知れないな」
「僕を守ってくれているんですか?」
「そうじゃよ。皆意識しないだけで、現実の世界の人間は、空気が支配するこの世界の者たちに守られておる」
「本当は会っちゃいけない存在なんじゃないんですか?」
「そうなんだ。本当は会ってはいけない存在なんだが、お前はわしを夢の中で見てしまった。だからこの世界に呼んで現実の世界に戻る前に、ここを見せておく必要があるんだ。そしてお前が現実の世界に戻った瞬間に、すべてのことを忘れてることになるだめにな」――ひょっとして、夢というのはすべてを見ているんじゃないだろうか――
この疑問は以前から持っていたが、神様の存在で、その思いが現実味を帯びてきた。
実際にちょうどのところで覚めていると思っていた夢であるが、本当は最後まで見ていて、目が覚めるまでに、都合の悪いところは忘れてしまうようになっているとすれば……、そこに存在するのが空気の支配する世界であるという話に信憑性を感じるのだ。
――今考えていることも、きっと忘れてしまうんだろう――
と思いながら、神様をじっと見ている。
じっと見つめている川端の気持ちを知ってか知らずか、神様の表情は、ニコニコとしていて、最初に見せた笑顔と何ら変わっていない。
「お前のことはこのわしが分かっておる。だから心配ない」
何のことを言っているのだろう。神様は続ける。
「お前は二度と夢の世界に足を踏み入れることができないのだが、そのかわりこの世界でわしが待っておる。夢の世界ではないのだが、夢の世界の中に夢が存在するのだ。それがこの空気が支配する世界で、普段は誰も知らない世界なんだ。夢を見ていて最後まで見たという記憶がないだろう?」
神様はそこまでいうと、川端の反応を見ようと顔を覗き込んだ。
「どうやらお前はある程度のことを察しているようだな。きっと今まで信じられないと思いながらここの存在に気付いていたのかも知れないな」
図星であった。話を聞いていて、無意識に頷いてもいた。
「思ったとおりだな」
神様は何でも分かるのか。それとも川端のことだけが何でも分かるというのだろうか。思い切って聞いてみた。
「あなたは、どうしてそんなに私のことが分かるんですか?」
神様は一瞬下を向いたが、
「分かるのはお前のことだけじゃ。今見えているこの世界はお前だけのためにあるものだからな」
「空気が支配するって言われたこの世界、ここに他人は入って来れないんですか?」
「いや、それは夢と同じで、お前の潜在意識が感じさせるものだ。だが、ひょっとすると他の人も同じように空気の支配する世界に入り込んでいれば、共有することもあるかも知れない。起きてからそれを、覚えているかも知れないね」
そういえば、人によっては同じような夢を見たという話を本で読んだことがある。夢の共有というような内容が雑誌に書かれていた。それは不思議なことを纏めたような雑誌だったが、パッと見、何のことか分からなかった。こうやって神様と話をしていれば、その内容の信憑性が明らかになってくるようで、雑誌の内容を時間が経つにつれて、思い出していった。
しかし、この夢の世界に時間の感覚はあるのだろうか? 神様と話をしていて時間の経過を感じるのだが、神様を見つめていると、自分が時間を超越しているように思えて仕方がない。
――まるで四次元の世界のようだ――
と感じると、
――同じ時間にしか同じ空間は存在しない――
という概念が頭をよぎる。しかし、それは自分が理解している三次元という世界であって、そこから先を想像すれば、同じ空間に違う時間が存在しても、同じ時間に違う空間が存在しても想像の中であれば、ありなのではないかと考える。
しかしそれも限界がある。
――考えているだけで、実際にはありえるわけのないことだ――
この世界を創造しているのは神様ではないのかも知れない。かくいう川端本人なのかも知れない。他の人すべてに存在しているものなのか、それともこの世界を想像できる人だけが創造できるものなのか、そこだけがきっと最後の疑問として残るだろう。
風邪を引いて偶然陥ってしまった不眠症、そこで自分を助けるために現われた神様、すべてを悟ってしまっているであろう川端にだから話せたことなのだ。
ここにいる老人は神様などではないのかも知れない。もし神様だとするならば、川端だけの神様だ。だが、それも何か違うように思う。あまりにも川端の性格を知りすぎているようだ。
――だからこそ神様なんだ――
作品名:短編集39(過去作品) 作家名:森本晃次