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短編集39(過去作品)

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 木陰になっているせいもあるのだろう。見るからに涼しそうな風が葉を揺らし、その下で静かに座っていると気持ちいいかも知れない。
 公園の中に入り、ベンチに腰掛けた。腰の痛みを感じていたのもあったからで、座ってみるとさっきより少し気分が楽になっているのを感じた。
 きっと汗を掻いたからだろう。昨夜寝ていてまったく汗を掻いていなかったが、布団から出て布団を触ると、かなり熱くなっていたようだ。
 首筋を触ってみると、冷たくなっている。熱がある時は、首筋を触ってみることで、どれほど熱があるかを感じることができるが、冷たくなっているということは、熱がかなり下がってきていることを示している。
 本当に熱が高い時だったら、ちょっとの風でも寒気がして、震えが止まらなくなるだろう。しかし、その時に感じた心地よさは、抵抗力の低下している身体に心地よい刺激を与えてくれているようである。
 熱が出るというのは、元来悪いことではない。身体に入った菌やウイルスの侵攻を抑えようとして、身体が抵抗しているのだ。熱があまりにも高ければ仕方ないが、熱を下げる薬は病院側があまり出さないようにしているのもそのためである。
 十分な水分を摂って、汗として灰汁を身体の外に出してしまうというのも一つの方法である。
 ベンチに座って前を見る。公園全体を見渡せる位置にあるベンチなので、ゆったりと見渡せた。
 公園全体が最初に見たより広く感じる。その公園は小さい頃に遊んだことのある公園なので、懐かしさを感じていたが、その時に感じていた広さそのままを感じることができる。
――子供の目線で見るからだろう――
 大人になってから公園を見ると、どうしても見下ろすようになり、小さく感じられた。ブランコも滑り台もジャングルジムも、すべてを小さく感じるのである。それはきっと大きくなった自分の身体で遊んでいる姿を想像してしまうからだろうが、夕方遊んでいる時に見た長い影を思い出すからかも知れない。
 学生時代もこの道をよく利用していた。学校からの帰りにここを通ることも多く、ちょうど西日の差込む時間帯だった。遊んでいる子供たちの影が歪に伸びていて、身体の何倍の長さにもなっている。自分の背の高さから見る影の長さよりも、かなり長く感じていることだろう。
 公園の表も、小さい頃に比べればかなり様変わりした。西日が当たる方向にこそ、遮るものは何もないが、他の方向にはマンションなどの高いビルが立ち並び、すっぽりと都会の中に埋没してしまいそうである。ベンチに座って見ていると、公園で遊んでいる子供たちよりも、まわりのマンションに圧倒されるような気分になるのも当たり前というものだ。
 座ってゆっくりしていると、心地よい風に誘われてか、睡魔を催してきた。一息溜息をついたかと思うと、そのまま眠りに入ってしまうことが分かるようだ。昨夜あまり眠れなかったのが今頃睡魔となって表れたのだろう。寝るには決していい環境ではないが、
――眠れそうだ――
 と感じることが大切なのである。
 それだけ体調がよくなってきたのだろう。眠りが襲ってくるのが分かるのだから……。
 夢を見ている。
 目の前に小高い丘、何もない丘、まるで年輪のような筋が小刻みにいくつも見られる茶色い丘の上には、真っ青な空が広がっている。
――中学の頃に見たことのある光景だ――
 どうして中学の時だと分かったかというと、中学の修学旅行が山陰地方だったからである。鳥取から島根、山口にかけての範囲を回った。印象深いのは出雲大社や松江城のような神社仏閣だが、後から思い出すのは意外と鳥取砂丘だったりした。
 そう、茶色い年輪の丘、それはまさしく修学旅行で見た鳥取砂丘のイメージである。
 砂時計をよく利用していたので、色のついた砂が上から下に落ちる様子を何度となく見ていたことがあった。別に気にして見ていたわけではないが、きめ細かすぎるほどの綺麗な砂がすべて落ちきる様子は圧巻で、見ていて飽きるものではない。砂丘の砂には色がついているわけではないが、風が吹いた時にできる砂の紋は均等な波ができていて、自然の力の偉大さを今さらながらに思い知らされた。
 夢の中では風が音を立てている。まるで巻貝を耳に当てた時に聞こえる風が吹き抜ける音、まさしくそんな音だった。
――砂に時間があるのかな――
 ふと感じた。
 しかし、これはその時夢の中で急に思ったことではない。砂丘を見て一瞬感じたことだったが、それに対しての答えが見つからないまま、記憶の奥に封印されていた。
 砂に対する疑問だけではない。他に感じた疑問も同じように、ふと感じたことに対しての答えが見つからず、そのまま記憶の奥に封印されてしまったことがかなりあったように思えてならない。
 夢というのは、そういう疑問が記憶の奥から紐解かれて見るものなのかも知れない。夢が何の脈絡もなく見れるものではないということは感じている。潜在意識にないものを急に見るなど考えられないからだ。もし、潜在意識以外のものを意識して見るのであれば、誰か他の人の力が介在していると考えなければならないだろう。
――そんなバカな――
 夢に出てくる他人も、すべて自分の潜在意識の範囲内でしかない。もし潜在意識以上のものが夢を見せるのであるとすれば、現実の世界との境界が分からなくなり、
――夢から覚めなかったらどうしよう――
 という不安を絶えず抱いたまま生活しなければならない。
――眠らないなど不可能だ――
 というのが人間である。眠ってしまった以上、夢を見るか見ないかは本人にはどうすることもできないことなのだ。
 夢を見るのは眠りが深いからだと思っていたが、実際にそうなのだろうか?
 夢を見ていて目が覚めると、すっきり目が覚めるものだと思っていたが、最近は夢をそのまま引きずっているように思えることがある。
 夢の内容を覚えている時と覚えていない時でも違いを感じる。
 ハッキリと覚えている時というのは、目覚めがすっきりとしている時が多い。他の人を知らないので、比較できないが、少なくとも川端はそうなのだ。
 目覚めがすっきりとしている時は、意外と眠りが浅いものだ。起きる前の寸前に見た夢からすぐに目が覚めるのだから当然だろう。眠りが深いとそれだけ夢とうつつの間を彷徨っている時間が長く、現実の世界なのか、夢の世界なのか分からずに、いつまでも寝ぼけた状態になっている。
 睡眠時間が長ければそれだけ眠りが深いというものでもない。眠りの中には山もあれば谷もある。起きる前の寸前に見るのが夢だとするならば、きっと起きる前に谷があるのだろう。
 夢を見ていて、楽しい夢であれば、
「ああ、ちょうどいいところで目が覚めた」
 怖い夢であれば、
「助かった。あれ以上見ていればどうなってしまうのだろう?」
 と感じることがある。思わず声に出してしまったことが何度もあった。
 潜在意識が見せるものが夢なのだとするならば当然のことである。自分の意識以外のことはたとえ夢であっても許されるものではない。それができないのは、夢の中での自分は本当の自分ではないからだろう。
――客観的に見ている自分かも知れない――
作品名:短編集39(過去作品) 作家名:森本晃次