短編集39(過去作品)
という人が多いのは、目の前に写っている景色を漠然と見ているからだろう。それは目の前の光景をただ自然なものとして、信じて疑わないからで、石ころのようにあって当然と感じているからだ。
別にまわりの景色に疑問を抱いているという気持ちはなかった。ただ、鏡を見るようになって、情景をより気にして見るようになったのは事実である。
鏡を見ていて独り言が多くなったように思う。気がつけば鏡の中の自分に話しかけていて、ドキッとすることがあった。鏡の中の自分がまるで別人だと思うようになったのもその頃からで、それだけ寂しいのかも知れない。
昭雄という彼がいるのに寂しいのである。彼氏ができる前にも寂しさのようなものを感じていたが、一言で寂しさといっても種類が違うようだ。彼氏ができる前の漠然とした寂しさは頭全体を支配していたのだが、どこかに期待している自分がいたりして、諦めが早かったのも事実である。
しかし、彼ができた中での寂しさは、どこかに安心感を伴ってはいるが、底知れないものがある。どこが違うのか分からないのだが、鏡に向って話しかけてみたくなる理由がそこにあるのだ。
彼がいても寂しいのは人間の果てしない欲によるものなのだろうか。鏡を見つめていると、自分の顔をマジマジと見てしまうのは、そんな自分の中の欲というものを無意識に探っているからかも知れない。
彼に対してどんな欲を持っているというのだろう。尽くすタイプではない千春は、人見知りする上に、横着なところがあった。女性としてはあまりいいことではないところが多いのだが、男にはそれが可愛く見えるものなのかも知れない。
――鏡に話しかけている時の自分が一番素直なのかも知れない――
話しかけるというよりも、自分の悪いところを見ているのだ。
最近千春は、
――本当はとても寂しがり屋なんだ――
ということに気付いた。今までの自分にはありえないと思っていたことが、ことごとく当てはまる。それは性格面でのことで、寂しさというものがどんなものであるか、鏡を見ていれば想像がついてくる。
今まで人見知りしていたのは、自分のことばかり考えていたからで、彼氏ができることで、それは解消された。まわりが見えるようになると、今度は自分に自信が生まれてくる。生まれてくる自信はまわりへの気遣いになり、気遣いのできる自分がますます成長していくような気分になり、気持ち的な余裕に繋がっていく。
――クラシックが好きなのは、余裕を気持ちの中に持っていたからだ――
と感じるようになると、馴染みの喫茶店がほしくなった。それもクラシックが見せ全体を奏でるハーモニーとなっているようなところである。
よく行く喫茶店はそんな店だった。最初は鏡なんてなかったのに、鏡があることに気付き始めると、自分がまた分からなくなってくる。
――彼がいても寂しい――
という気持ちは相手が嫌いになったわけでも、自分の中の心境の変化ではない。どちらかというと、矛盾が頭の中で目覚めたように思う。
限界が見えているような気がして、すべてが虚しく感じられる。限界なんてそんなに簡単に見えるわけもなく、何に対しての限界なのかも分からない。ただ、
――いつも、「所詮」という言葉が頭に浮かぶ――
ある時を境に、自分がずっと成長してきたということを考えている人は特に、成長を少しでも自覚できなくなると、そこに限界を感じてしまうものなのかも知れない。気持ち的にはものぐさになり、
――どうせ何をやってもたかが知れているんだわ――
と感じてしまう。しかし一方、何かを期待している自分がいるようで、その期待は大したことではない。
そこが矛盾しているところなのだ。考えていることにしても、
――その日が無事に暮らせればそれでいい――
といった程度のもので、まるで小学生の頃に戻ったような気がする。
小学生の頃というと、人見知りしていた頃で、内向的な性格だった。彼氏ができることで社交的になると、内向的な自分の性格が信じられなくなり、その頃に戻りたいなど考えもしなかった。小学生時代がまるで前世であったかのように変わってしまった自分というものを遥か昔に思っていたのだ。
しかし、限界というものを感じてくると、その小学生時代に考えていたことが、リアルに思い出せる。あれだけ社交的な自分を誇らしげに思っていたのにどうしたことなのだろう。
社交的な性格がすべて煩わしくなる。社交性は人からの見返りと期待していたように思えてきたのだ。そんなつもりは毛頭なかったはずなのに、どうしてそんな気持ちになったのか。
――誰かに何かを言われたのだろうか――
忘れっぽくなったことで、そんな大切なことも忘れている。
――忘れっぽいんじゃなくて、わざと覚えておかないようにしているのかな?
と思ってしまう。もちろん無意識のことではあるが……。
小学生の頃も、覚えていなければならないことを忘れてしまっていたが、それとはちょっと違う。覚えていたいことがどういうことかという意識が小学生の頃にはなかった。
昭雄に告白した時のことを思い出していた。その時のことは、普段完全に忘れているのだが、なぜか時々思い出すことができる。
鏡に向って自己暗示を掛けたのは、その時が最袖最後だった。それまで、どうして鏡に向って自己暗示を掛けなかったのか、それ以降は掛けないのか、自分でも分からない。その時の自分が自信ありげに見えたことは間違いない。少なくとも告白をしようと考えていたということは、それなりに開き直りガあったに違いないからだ。
いや、誰かに後ろから見られていたような気がする。自己暗示を掛けている時は、自分であって自分でなかったような気がする。鏡に写っている自分が本当の自分で、自己暗示を掛けているのは、まるで魔法使いのように思えたのだ。
鏡に写った自分の後ろに誰かを感じる。本当ならば、暗示を掛けている自分の後ろにも誰かがいてその人を感じているのだろうが、暗示に集中していたせいか、見つめられているという意識はなかった。むしろ、その人の目線は鏡の向こうにいる自分の後姿に向けられているのではない。鏡を通して暗示を掛けている自分に向けられているものだ。
その人の姿、見覚えがあるというものではない。気持ちの中の渦中の人、昭雄その人ではないか。
おかしな気分だった。昭雄に告白するための自己暗示を掛けていたのに、掛けている自分が、渦中の人である昭雄に見つめられているのだ。その時は、
――自分が一生懸命になっていることで、応援してくれているんだ――
ということを信じて疑わなかった。今でもそうだと思っている。実際告白には考えていたほどのエネルギーを使うことなく、昭雄も気を遣ってくれて、彼の穏やかな表情に幾分か助けられた。
――何を緊張していたのだろう――
と思ったほどだ。
自己暗示を掛けてから、告白に成功するまでの記憶を、しばらく思い出せないでいた。
もちろん、鏡の中にいた昭雄の存在などに気付いたのは告白が成功し、幸福の絶頂にあった頃ではなかった。それからしばらくしてからのことだったが、それもふとしたことで思い出したのだ。あれから数年も経っていたのだ。
作品名:短編集39(過去作品) 作家名:森本晃次