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短編集39(過去作品)

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見つめられる鏡




                   見つめられる鏡



 鏡というものを不思議だと感じている人は、かなりいるだろう。左右対称なものを映し出すのに、上下対照になることはない。まったく同じ時間に、ただ左右が対照になっているというだけで、同じものを写し出しているのだ。
 女性は特に鏡を見るのが好きである。男性の中にも鏡を見ることでナルシズムに浸っている人もいるだろうが、それはごく稀であって、ほとんど気にすることはない。
 ここに二人の男女がいる。彼らは毎日鏡を見ているのだが、なぜか、お互いに鏡の中から誰かに覗かれている意識がある。それが誰なのか、どうしてなのか分からないが、意識しないわけにはいかない。毎日鏡を見ていないと気がすまないのだ。
 女の名前は山口千春という。
 楽しかった短大を卒業し、貿易会社に入ってそろそろ一年が経とうとする春の暖かさが感じられる時期だった。寒かった冬が終わり、何もなくとも穏やかな気分にさせられるこの時期は、千春でなくともウキウキしてくるというものである。
 夜になってあたりが暗くなると、街灯に照らされるかのように桜のピンクが浮かび上がって見られる。街灯が薄暗ければ薄暗いほど明るさを感じるのは、この時期だからだろう。
 花粉の散布する時期でもあり、想像以上に身体にだるさを感じるのもこの時期と言えるだろう。ゆっくり歩いているつもりでも、重たい身体を引きずるよう歩いていると、駅からの道のりがいつもの数倍の距離に感じられる。ほんのりと背中に汗を掻いていて、座って休もうものなら途端に冷えてきそうで、風邪を引かないように気をつけなければならない。
 それでも、駅から家へと向う途中にある公園を通ると立ち寄りたくなる衝動に駆られてしまう。いつも通っている公園も、普段は漠然としてしか見ていないので、これほど広い公園だということを認識していなかった。まだ西日が高く、あどけない声ではあるが、目一杯の声で遊んでいる子供たちを見ると、さらに身体にだるさを覚えるのは、無意識に子供の頃を思い出しているからであろう。
 ベンチには子供たちの親であろうか、遊んでいる子供を尻目に、自分たちの間でも世界を作っている。
――何をそんなに話すことがあるのだろう――
 不思議に感じるが、どうせ旦那の悪口か、近所というごく狭い範囲をいかにも広大な世界のように話す他愛もない噂話ではなかろうか。
 子供がいくら遊びに夢中とはいえ、そばにいるのにどういう心境なのか聞いてみたいくらいだ。きっと何も考えておらず、唯一のストレス解消なのかも知れない。
――あんな母親にはなりたくない――
 と思う千春だったが、結婚して子供ができてからのことを考えると、何を楽しみにすればいいのか、今の母親を見ていると不安になってくる。
「子はかすがいって言うじゃない。子供ができれば可愛くて仕方がないわよ」
 という人もいれば、子供を車に置き去りにしてまでパチンコに走る信じられない母親もいる。
 たとえとしては極端だが、それだけ子供を持ったことのない千春にとって、子供を持つということへの期待と不安は心の奥に燻っているのだ。
 千春には高校時代から付き合っていた彼がいた。甘えん坊の千春にとって、彼は実に献身的な男性だった。かといって絞めるところはキチッとしているので、千春にはできた彼だった。
 名前を遠藤昭雄といい、背が高く、スポーツをしていただけあって、女性からはもてるようだった。そんな昭雄を彼にできたことが千春にとって気持ちを増長させるに十分であった。
 高校時代まで控えめだった千春を、昭雄は好きになったようだ。増長したとしても、それは痘痕もえくぼとはよく言ったもの、それほど昭雄にとって違和感はなかった。
 しかし、控えめだったのは、人見知りをするからで、増長し始めると人見知りがなくなり、見違えるように明るくなった。
――長所と短所は紙一重というが、まさしく千春のような人のためにある言葉なんだな――
 と、昭雄は思った。控えめな性格が好きではあったが、人見知りする性格には少し閉口していた。それでも自分にだけは砕けている千春に独占欲のようなものが芽生えてきたことで、自分が男だということを認識させるものでもある。
 昭雄とは小学校、中学校と一緒だったが、それまでは幼馴染という思いだけがあって、恋愛感情など芽生えなかった。異性に興味を持つのが極端に遅かった千春は、自分の顔があまり好きではなかったからだと思っている。
――コンプレックスがあったのね――
 後から感じるが、人から言わせればコンプレックスを感じるような顔ではなかったというだろう。ただそれも自分の思い込みで、人が見たのとでは違うのも当たり前だ。
 千春は自分の性格が好きではなかった。人見知りする性格だということを自覚していたからだ。それだけに高校に入り昭雄と付き合いだすことで自分も一緒に輝いているように思えてきたのだ。
 実際に輝いていただろう。友達と気さくに話せるようになっただけでも皆から、
「千春って変わったわね。あんなに気さくな性格だとは思わなかったわ」
 と言われるようになっていた。皆それを聞くと一斉に頷くことだろう。しかし反面、
「少し調子に乗っているところもあるわ」
 と誰かが言ったとすれば、最初一斉に頷いた時よりも早く、それも息を合わせて頷くのではないだろうか。何にしてもいきなり変わった性格である。どこかに無理が生じても仕方のないことだ。
 昭雄は、すべての面で女性からもてた。いろいろな性格の女性から告白もされただろう。しかし、告白してくる女性というのは、どうしても自我が強く、程度の違いこそあれ、すべてが自分中心でないと我慢できないという人がほとんどである。それが昭雄には我慢できなかった。
 千春は、それこそ一世一代の告白だったことだろう。付き合い始めてから、どうして告白ができたのかを千春に尋ねたが、千春自身も、
「どうしてなのかしら? 自分にも分からないの」
 と答えるだけだった。
 その時のことを千春は断片的に覚えている。
 まず一番覚えているのは、告白の前にずっと鏡で自分の表情をチェックしていたことである。鏡に写った自分に対し、一生懸命に話しかけていた。
「あなたは素敵なのよ。勇気を出して。さあ、臆することなんてないのよ」
 要するに自己暗示である。自分が自己暗示に掛かりやすいタイプであることは以前から分かっていた。控えめな性格であまり人と話をすることもなかったが、それでも中学卒業まで何とかうまくやってこれて、高校も志望校にしっかり合格できた。自分に自信はあるつもりでいたのだ。そうでなければ高校入試もうまくいかず、プレッシャーに押しつぶされていたのは後から考えても想像できる。それほどプレッシャーを感じることもなく高校に入学できたのも、自己暗示の成せる業に違いない。
 当然、自己暗示に裏付けられた実力も伴っていないと、成功もできないだろう。成功が自信をさらに深めることになったのは、言うまでもない。
 そんな時に気になっていた昭雄のことを自分の中で一度整理してみたい気持ちになった。
――今しかない――
作品名:短編集39(過去作品) 作家名:森本晃次