短編集39(過去作品)
「あまり正直に言いすぎるのも問題あるよ。正直なのはいいことなんだろうけど、考えて言わないとね」
それがなかなか難しい。
テレビアニメの影響がかなりあるに違いない。アニメのヒーローを見ていると独り言が多く、思っていることをすべて口に出している。しかし、子供相手のアニメなのだから、製作者側からすれば分かってもらおうと考えたり、格好よさを考えれば、おのずと主人公の独り言が多くなるのも当然というものだ。
大人になるにつれて分かってくるのだが、時すでに遅く、順応しやすい有働に取って、独り言や言いたいことを言ってしまう癖はなかなか治らない。小さい頃にできた癖というのはなかなか治すことはできない。そのくせ、同じような癖を持っている人間を見ると嫌悪感を感じ、それが自己嫌悪に繋がってくるのだ。
自己嫌悪がそのまま鬱状態に陥ることもある。鬱状態自体が、自己嫌悪の延長のようなものなので、一旦自己嫌悪に陥ると、なかなか元に戻らないことは分かっていた。
そんな時に好きな女性がどんな女性か、ハッキリと分かる瞬間がある。普段考えていても漠然と歩いている時に偶然見かけた人を、
――あの人が自分のタイプなんだ――
と感じることがあるが、普段普通に思い浮かべてもなかなか浮かんでこない。だが、鬱状態への入り口に差し掛かった状態の時には思い浮かぶのだ。
鬱状態の入り口というのは、普段とはかなり違う。全体的な色も黄色掛かって見え、夜になるほど、鮮やかに色を識別できるのである。
――不思議な感覚だな――
とよく思うのだが、普段が漠然としているだけなのかも知れない。
普段からいろいろなことを考えているので、却って漠然としてしか見えないと思えば納得もいく。逆に鬱状態の入り口では、これからやってくる本格的な鬱状態への思い入れが激しく、思考の方が漠然としてしまっているだろう。だから、見えているものがハッキリ見えるに違いない。
女性を抱いた幻を感じた時、鬱状態ではあったが、そろそろ終わりが血がづいていたことは分かっていた。
鬱状態が終わる時というのは分かるものである。期間が一定していて、日数的に分かると言うこともあるが、それよりも、漠然と分かるのは見えていたものが見えなくなったり、逆にそれまで漠然としてしか感じることができなかったものを敏感に感じることができるようになるからだ。
その時も鬱状態の終わりを感じていたのだが、普段との違いも少し感じていた。
漠然としてしか感じられなかった感覚が敏感になってきたのは普段と同じなのだが、道を歩いていて見かけるような、実際の目で確認できる女性を自分のタイプだとハッキリ思えるだけでなく、想像だけでハッキリと自分のタイプの女性を感じることができるのだ。
――この感覚は鬱状態に陥り始めた時に感じたものだ――
それをハッキリと感じたのが昨日だった。
そんな時、居酒屋に寄ったのだ。
――もうすぐ、苦しかった鬱状態も終わる――
という思いから酒を呑みたくなったのも無理もない。それまでは下手に呑むと悪酔いするのが分かっていたからだ。酔いが回ってくると普段でも夜の明かりがハッキリと見えてくる。鬱状態に拍車をかけるようなものであることは分かりきっていた。
――今なら大丈夫だ――
それまで禁断としていた居酒屋の暖簾をくぐる。夜になっても気温がそれほど下がらない時期に陥った鬱状態も、今は夜になればすっかりと涼しい時期になって解消に向っている。
――時期的に一番いい時だ。今なら少々のことでは鬱状態に引き戻されることはない――
鬱状態から抜けている途中で、また鬱状態に逆戻りするということは今までから考えてもありえないことだった。期間的にもほぼ半月くらいというバイオリズムの中にある鬱状態、免疫のようなものができているおかげで、少々のことでは元に戻らないのだろう。
元々鬱状態に陥る原因や根拠というのがあるわけではない。定期的なもので、それがバイオリズムによるものだということを自分でも認識しているので、鬱状態に陥る時でさえ外部からの要因はほとんど介在していないだろう。その日は安心して居酒屋でチビリチビリとやっていた。
建築業の人たちの話にマスターが入っての会話をじっと聞いていると、イメージが湧いてくる。鬱状態の時にイメージを湧かせるというのは仕事以外では不可能なのだが、話を聞いているだけでイメージが湧いてくるのは鬱状態の出口が見えている証拠だ。
「あそこにちょっと変わったマンションがあるだろう?」
「どこのマンションですか?」
「ほら、あそこにある川の土手に建っているマンションさ」
「ああ、ロジカルマンションですね?」
「そうです」
最初に話し始めたマスターの話をカウンターの正面で聞いていた男が答えている。川の土手に建っているマンションと聞いて一瞬ドキッとしたが、ロジカルマンションと聞いてそこが自分の住んでいるマンションであると確信した。
ロジカルマンションは確かにマスターの言うように少し変わった造りになっているが、同じような造りのマンションは他にないわけではない。実際に小学生時代の友達が住んでいたマンションも同じような造りになっていた。ただ、友達の部屋は七階にあったので、それほど意識することもなかっただけのことである。
ロジカルマンションの造りを考える時に思い出すのは、やはり小学生時代に住んでいたところにあった川である。その頃に住んでいたところは、海も近く山も近いといった地域で、比較的坂が多く、人の住める範囲が横に長いのが特徴だった。
中途半端な都会だったが、鉄道は当時の国鉄とは別に私鉄も少し離れていたが平行して走っていた。
私鉄の方が山間にあったのだが、そこは全国でも珍しい「天井川」と呼ばれるところで、川の下を鉄道が走っているところだった。
もちろん、川の両側は道路になっていて、知らない人が車で走りぬければ、まさか下に電車が走っていようなど想像もつかないに違いない。
友達のマンションにしても、今住んでいるロジカルマンションにしても、変な設計だと思えば思うほど、天井川のことを思い出すのである。
ロジカルマンションの正面玄関やロビーにあたるところは、実は三階にある。土手に斜めにして建っているので、表から見たのと、裏から見たので、まったく違った表情をしている。
正面玄関は川の横にある道側にある。一階部分は、全部が駐車場に設計されている。車を使う人と自転車を使う人だけが一階を利用するが、他の人は皆三階を利用する。二階に住んでいる有働の部屋が暗いのは当たり前で、正面玄関よりも下に位置しているので、光が当たるのは一定方向しかないのだ。それでも家賃が安いことだし、それほど部屋にいるわけではないことから、二階を利用している。空き部屋が多いのも納得できるというものだ。
ロジカルマンションに引っ越してきて、今までに鬱状態に陥ったことがなかったのは、部屋自体が暗く、あまりいろいろなことを考えることがなかったからかも知れない。しかし、住み慣れると少しずつ何かを考えるようになったのだろうか、それとも気持ちに余裕ができたのだろうか、少しずついろいろ考えるようになってきた。
作品名:短編集39(過去作品) 作家名:森本晃次