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短編集39(過去作品)

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 最初は病人の呻き声のように聞こえ、気持ち悪さで背中に掻いた汗がさらに玉のようになって一筋流れてくるのを感じた。だが、よく聞いてみると、その声に旗鼓覚えがある。
――そうだ、前のアパートで悩まされたあの声ではないか――
 しかし、声の質はまったく違う。前のアパートの時の女性の声は、声のトーンが低く、いわゆるハスキーな声を押し殺しているような雰囲気は、妖艶さを感じさせ、男の性をくすぐる一番だと思えるくらいだ。
 部屋を開けた瞬間に聞こえた声はもっと若い声で、有働がもっと若かった頃であれば、一番感じたかも知れない。かなりの偏見だが、少しわざとらしさがあるようにも聞こえ、ビデオの中の女性のようで、あまり現実味を感じさせない。
 途中まで開きかけた扉を閉めるわけにもいかず、少し耳を澄ますようにしてその声を聞いていた。
 かなしばりにあったようになり、鍵穴に差し込んだキーを悪戯に回してみる。すると、それに反応するような声に聞こえるではないか。
 抜いたり入れたりしてみる。やはり抑揚のある声を発し、空気にさらなる重たさをもたらせる。じっとりと背中に玉の汗を浮かべるに十分までの声を聞いていると、しばしその場に立ち竦んでしまった。
 妖艶な声というわけではない。呻き声というには声のトーンが高く、そのために聞き入るというわけでもなかった。
 少しずつ我に返ってくる。
 部屋に入りこむと、声の場所は奥の部屋からだ。途中までは誰もいない部屋に篭ってしまった熱気のために気が遠くなりそうだったが、奥の部屋まで来ると、足元から冷気が湧き出しているように思えてくる。
――冷房を切り忘れた?
 確かに冷房の効いている音が聞こえてくる。奥の部屋からである。扉の前に立つと、今度は一気に扉を開けた。
 軽い扉が一気に開くと、そこには見知らぬ女が一人、ベッドの上で横になって眠っている。熟睡しているのか、スヤスヤ寝息を立てている。だが、先ほどのような呻き声を上げていたようにはどうしても思えないのだ。
 どうしてこの女性がここにいるのか、そしてあの呻き声は何だったのか、扉を開けて飛び込んできた光景からは何も考えが浮かんでこない。
 ゆっくりと近づいて寝顔を覗いてみる。寝顔からは、その前に聞こえてきた淫靡な声を想像することは困難である。あどけない寝顔、それ以外の何ものでもない。
 鍵穴にキーを差し込む時に、一瞬グニャっとした何とも言えない感覚があったが、その感覚が指先に残って自分の理性と戦っているのを感じた。
 ずっと微動だにしない女性を見ている分には何ともなかったのだろうが、寸分でも動くのを見ると反応してしまう身体を感じる。
――漂ってくる匂いに惑わされるのだろうか――
 確かにそのことを考えた。だが、それがいつの時点での考えかは分からない。匂いを感じた瞬間に、有働の男の部分が爆発していたのだ。
 遠くの方で悲鳴が聞こえた。ものすごい力が働いたかと思うと、次の瞬間には押し殺すような声が聞こえてきて、次第に相手の力が抜けていくようだった。
 女性の身体が小刻みに震えている。男に蹂躙される自分の情けなさに打ち震えているのか、それとも、別に理由があるのか、男の部分が顔を出した有働にとって、もう引き返すこともできず、気持ちが高ぶりに拍車を掛けるだけだった。
 抵抗は最初だけだった。
――抵抗されると男って燃えるものさ――
 など冗談だろうと思いながら友達の話を聞いたのを思い出したが、まさか自分がそんな場面に出くわすなど、想像もしていなかった。
 女はなるべく、顔を見せないように必死になって須藤の胸で自分の顔を隠そうとしている。薄暗い部屋の中で聞こえる断続的な呻き声、時折甲高い歓喜の声へと変わるが、その声を遠くの方で聞きながら、気持ちだけは盛り上がってくる。
 身体の一点に集中した血が、一気に放出された瞬間、天井が回っているかのように感じた。襲ってくる気だるさは初めての経験には違いないのに、今までに感じたことがあるような気がしていた。気だるさの中で我に返っていく瞬間は、身体中が敏感になってしまい、動くことを疎ましく思うのはそのためだ。
 放心状態で、よくそこまで思いが巡ったものである。
 自分の腕の上に女の頭がある。こちらを向いているその顔には安心感が漲っていて、先ほどの震えが何であったかなど問題ではない。
 部屋の中が狭く感じる。ほとんど真っ暗だと思っていた部屋は思ったより明るく、彼女の肌の上で玉のようになっている汗が光っている。
――天井がまるで落ちてきそうだ――
 と思えるほどに、低く感じられる。模様も一つ一つをハッキリと感じることができ、幾何学模様の美しさがそこにはある。
――今までも天井を見ながら寝ていたのに――
 と思ったが、普段は豆電球、その日は真っ暗な中に浮かび上がった模様である。当然感じ方も違うはずだ。きっと立体感の感じ方が違うのだろう。
 暗闇に慣れてくると、普段なら見える色はグレーだけだった。しかし、その日はグレーに若干赤い色が混ざっているように思えてならない。
――目が充血しているからかな――
 と感じたが、ゆっくりと手を伸ばすと、ぬるっした肌触りにドロドロ感を感じた。
――嫌な予感がする――
 と感じるや否や、気がつくと、目の前にいた女性は消えていた。
――夢だったのか――
 さっきまであれだけ鮮明だと思っていた記憶が曖昧になっていた。しかし、女性を抱いたのが嘘ではないと言わんばかりに、指先に感覚が残っている。
 残っている感触は、指先ばかりではない。身体全体にも残っていて、目だけはクッキリと開いているにもかかわらず、見えているものは曖昧で焦点が合っていないに違いない。
 意識がもっとハッキリしてくると、目の前にいたはずの女性がいなくなっていることに気付いた。
――どうして今まで気付かなかったのだろう――
 と思ったが、いないならいないで違和感はない。元々ここは誰もいないはずの自分の部屋である、女が消えてしまったのではなく、最初からいなかったと思うのが自然なのだろうが、身体に残った生々しさが納得させてくれない。
 餃子を食べるとにんにくの臭いが残るものだ。
「ガムを噛んで、臭いを消しなさい」
 と子供の頃に言われたものだが、消えるものではなかった。
 そのことを友達に話すと、
「そりゃそうさ、餃子の臭いは口から入って消化されたものが、血液に混ざってしまうものなので、口の中だけの臭いを消そうとしても駄目なのさ。風呂に入ったり身体を思い切り動かしたりして、身体から汗として出さないと駄目なのさ」
 疑問がすべて解決したわけではないが、それなりに説得力のある話をしてくれた。
 オンナとにんにくの臭いを一緒にするというのもおかしなものだが、根本は同じところにあるように思う。すぐに思い浮かべたのがにんにくの話だったからだ。
 しばし落ちてきそうな天井を眺めていた。
――一体何をやっているんだろう――
 いくら女性と知り合う機会もなく、感触が身体に残ってしまうくらい女性に妄想を抱いてしまうなんて来るところまで来てしまったのだろうか。
作品名:短編集39(過去作品) 作家名:森本晃次