短編集39(過去作品)
と真剣に考えるようになったのは、その声に迷っている自分に気付いた時だった。男が女に感じてしまうのは、声だけでも十分だと知ったが、実際に抱く女性を目の前にした時に感じるはずの新鮮さを味わうことができなければ、一生の損ではないだろうか。それを思うと、早めに部屋を決めて出て行きたかった。
焦っていなかったといえば嘘になる。今の部屋だって若干の妥協がなかったとは言えない。しかし、予算を考えると、最初に考えていた妥協案に比べればだいぶマシな部屋であることは間違いない。
その日は仕事が早く終わった。いつもだと自分に回ってくる仕事を待ってからこなすので、どうしても定時に終わるのが難しかったが、その日は珍しく、早めに回ってきた。
「新人がやってるから迷惑を掛けるね」
と自分にまわってくる仕事を受け持つ部署の主任から言われていた。だが、それから結構な日数が経っている。有働自身あまり日にちの経過を気にする方ではないので、まだ新人というイメージでいたが、だいぶ仕事に慣れてきたに違いない。
日にちの感覚が麻痺しているといってもいい。毎日同じ仕事の繰り返し、同じ仕事と言えば語弊があるが、週単位の仕事に月単位の仕事、忙しい時期とそうでもない時期がハッキリしているのも有働の仕事の特徴だった。
仕事がスムーズに終わって定時に帰るのも気が引けるくらいだが、そんな気持ちが表情に出ないのも有働の性格かも知れない。
「お疲れ様でした」
自分でも顔がニコニコしているのが分かる。気が引けるどころか、早く帰れるという嬉しい気持ちが前面に出ている。それだけ、今まで早く帰ってみたいと思っていたことの現われだろう。
マンションの近くに帰り着く頃は、まだ明るい時間だった。
暑さも若干残っていて、さすがにセミの声は朝方しか聞こえなくなったが、その日は帰り着いた時にセミの声が聞こえていることを一瞬だけ、
――不思議だな――
と意識していた。しかし心に深く残るようなことはなかったが、今までの有働には往々にしてそういうところがあった。
気になることがあっても、それは一瞬感じただけで、それほど心に残っていない。しかしふとしたことでそれを思い出すのだが、思い出すのも一瞬のことで、いつのことだったかなどもまったく覚えていない。
――前にも同じことを感じたことがあるような気がするな――
と感じる時がまさしくそんな時で、もしそれが何かの光景であれば、
――デジャブー現象――
と感じるのだろう。
有働はデジャブー現象を信じている。もちろん、非科学的なことなのだが、それも心理が作り出したものであれば非科学的であっても、むげに否定することもできない。特に前の部屋で毎日のように聞こえてきた悩ましい声が部屋を離れてから数ヶ月、今となってはまるで夢幻のように思えるくらいである。
引っ越してからそのことは完全に忘れてしまっていた。思い出さないといえば嘘になるが、もう、その声を思い出しておかしな気分に陥るということはなかった。
――環境の変化がこれほど影響するとは思わなかった――
あまり、まわりの環境に順応する方ではないと思っていたが、素直に環境だけなら順応できることの証明であり、新しい自分の発見であった。順応できないと考えるのは、そこに何か主観的な考えが芽生えてくると、無意識に自分の中で否定したくなることを探しているように感じるからだろう。だから、自分のことを天邪鬼だと考えてしまうことがあった。
前のマンションに住んでいる頃は比較的定時に終わることができた。やはり仕事はベテランの人から引き継ぐとスムーズにいくもので、確認もいらないからである。相手が新人だと、どこかに間違いが潜んでいないかを最初に見て仕事をしないと、後で気付いてやり直したりすると完全な二度手間になってしまう。
部屋への扉を開けるため、鍵穴にキーを差し込んだ。
ノブを回し、中を少しずつ開ける。一気に開けてもいいのだが、今まで有働が一気に開けたことはない。
以前に親と住んでいた頃、マンション住まいだったことがあった。新居を建てるので、それまでの仮の住まいとして、近くの賃貸マンションを一時的に借りたのだ。管理人とは顔馴染みだったこともあって、快く貸してくれたと親は言っていたが、その言葉に間違いはないだろう。近所づきあいもよく、世話焼きである母親の性格のよさも手伝って、近所で不自由することはなかった。
――天真爛漫――
という言葉が一番ふさわしい母である。
三ヶ月ほどの暮らしだったが、マンション住まいをしたことのなかった有働には新鮮だった。知らなかったこともかなりあり、楽しい体験だったことには違いない。
その中で扉が重たくて、中から鍵が掛かっているのではないかと思えるほどビクともしなかったことがある。
――どうしてなんだろう――
と思ったが、分かってみれば何てことはない。
ちょうど料理をしている時間だった。設計の問題なのか、ダイニングキッチンのキッチンが、窓から離れたところにある。焼き物や揚げ物をしている時に出る煙の激しさはどこでも同じなんだろうが、密閉した部屋での煙を逃がすには、どうしても換気扇の力が強くなければいけないようだ。風が当たるわけではないのであまり気付かないが、音だけはさすがに強い。
部屋の中の空気を吸引するのである。気圧が低くなり、玄関の扉にもかなり影響を来たしているのだ。そのために中から押さえつける力が強く、扉を引くことはできない。
親と住んでいる頃のマンションで帰ってくる時間というと、どうしても夕食の時間に当たることが多かった。そのために強く引っ張らないと扉が開かないと思い込んでしまっている。だが、料理といっても換気扇を使う時ばかりではない。それ以外の時に一度一気に引いてしまって腰が抜けそうになったことがあった。
それからである、扉を一気に開けることをしなくなったのは・・・…。
その日もゆっくりと扉を開けた。それもいつもよりゆっくりと……。
どうしてそこまでゆっくりと開けたのかその時の心境としか言いようがないが、少しあける時に違和感があったのは拭えない。
――おや?
と何かを感じた。夕方とは言いながら昼間にぐんぐん気温が上り、密閉した部屋から漏れてくるムンとした空気を気持ち悪がったのは事実だが、それだけではない。薄暗くなったムンとした空気はあまり重さを感じず、耳鳴りを起こしそうなシーンとした雰囲気が溢れ出てくるのを想像していたが、どこかが違っているようだ。
――ここって本当に自分の部屋なのか?
とも考えた。
鍵が合うのだから自分の部屋に間違いはない。だが、同じ場所であっても時系列の違いを感じてしまうのはなぜだろう? 築がかなり古い部屋なのに、女性がいると思っただけで新築のように感じる。掛かっているカーテンも決して派手ではないのだがピンク色で、香水のほのかな香りが漂ってきて、かと思えば女性特有のツーンと鼻につく匂いが充満しているように思えた。
確かにムンとした熱気は溢れ出てくるのだが、それだけではない。軽い空気を想像していたのに、湿気を帯びた少し重苦しい空気が充満しているのを感じた。そして耳鳴りとともに聞こえてくる声。
作品名:短編集39(過去作品) 作家名:森本晃次