いたちごっこ
考えてみれば、マスターだけが、客とは違っているのだ。見る方向も逆だし、客は座っているのに、マスターだけは立っている。なるべく上から目線にならないように、カウンターの奥は低くなっているのだろうが、それでも少し上から目線になっている。それが慣れてくると、絶妙な位置関係になっているのだろう。違和感がない状態というのが存在しているのかも知れない。
ある日、いつもマスターに話しかけているその女性が、完全にいつもと違う雰囲気で入ってきた。
――どうしたのかしら?
椅子に座る瞬間から、そう感じられるほどで、明らかに落ち込んでいる。その様子は失恋ではないかとえりなに感じさせた。
えりなの予想は当たっていた。
「ねえ、マスター。私、失恋しちゃった」
と、いきなりマスターに切り出したのだ。
「そうですか」
と、それこそ、相変わらずの返事しかしないマスターに、さすがにその時はえりなもじれったさを感じたほどだった。
――もう少し、言い方があるだろうに――
と言いたかった。
だが、口にすることはなかった。なぜから、えりなも悲しんでいる彼女の横で、自分がどのようなリアクションを取ればいいのか、戸惑っていたのだ。下手なリアクションを取って、彼女から睨みつけられたりすれば、もう本当にこの店に二度と来ることはないだろうと思ったからだ。
――二度と来ることはないという最後通牒を突き付けられるようなことはしたくない――
と感じた。
どうせなら、二度と来ることがないとしても、その時は自分だけで完結する結論であってほしいと思っているので、他人から与えられた思いから二度と来なくなるというのは、自分で納得できるものではなく、癪に障ることだった。
彼女は泣いているようだった。
そんな彼女にマスターはそっとおしぼりを渡し、その様子は他人には気付かれないように心遣いをしていた。
えりなはじっと様子を伺っていたので、その様子は手に取るように分かった。そして心遣いまで手に取るように分かった。
――意外とマスターって気が利くんだわ――
と感じた。
そして、その時を境に、マスターへの見方が変わったのは間違いのないことだった。
彼女の方はといえば、マスターの心遣いを知ってか知らずか、涙を拭ってしまうと、しばらく考え込んでいたようだ。マスターもそんな彼女を気にしている様子はあるが、決して他人に気にしている様子を見せないようにしている気配が感じられた。
――マスターって、人に気付かれないように気を遣っていたんだわ――
と、マスターを見直すと、自分がこの店の常連になった理由の一つに、自分でも意識していないマスターへの意識が備わっていたのではないかと感じたのだった。
その時、彼女とマスターの間に、誰にも分からないコンタクトがあることに気が付いた。そしてそのことに気付いた自分を、
――すごい――
と感じ、そう感じたことを、まわりに知られたくないという思いが浮かんだことも事実だった。
――特に、彼女とマスターには気付かれたくはない――
なぜなら、何がすごいのか自分でも分からないからだ。
何とも漠然とした表現できない感覚に感動している自分自身を、自分でも分かっていないからだった。
彼女はマスターのそっけない態度に落胆している様子もなければ、苛立っている様子もない。ただ、呟いたことを忘れてしまったかのように、彼女もカバンから本を出して読み始めた。
彼女もえりなもお互いにブックカバーが掛かっている本を読んでいるので、何を読んでいるのか分からない。えりなの方とすれば、大学生の女の子が喫茶店で読むような本なのか自分でも疑問だったこともあって、なるべくなら知られたくないと思っていた。もしこれが恋愛小説などであれば、見られてもいいと思ったに違いない。
「何をお読みなんですか?」
と、彼女はえりなの気持ちを察することなく聞いてきた。
えりなは虚を突かれた気がして、本当なら言いたくないはずなのに、
「あ、ええ、ファンタジー小説です」
と、思わず口走ってしまった。
しかし、えりなに、
――しまった――
という意識はなかった。
思わずとはいえ、口から出てしまったものが元に戻るわけでもないし、いまさら後悔しても遅いのは分かっていた。こういう潔さは、意外とえりなは持ち合わせていたりするのだった。
すると、彼女はえりなの様子に気を遣うこともなく、
「私は恋愛小説なのよ。それも純愛ではなく、愛欲と呼ばれるようなものなんですけどね」
と、照れ笑いしていた。
「愛欲というと、不倫だったり、略奪愛のようなドロドロ系の小説ですか?」
えりなは、ホラー小説は嫌いではないが、人間関係のドロドロとした愛想絵図は嫌いだった。
ホラーのように、フィクションであれば、いくら怖くても、信じなければいいだけなのに対し、愛憎絵図のドロドロとしたものは、元々、誰かのエピソードを元に書かれたものではないかという思いを抱くことで、最初からウンザリとした気持ちで読み始めることが分かっているので、それが嫌だったのだ。
だが、それはあくまでも自分が読むという前提に立ってのことで、人が読んでいる分には気にならない。逆にそんな小説を好んで読む人に対して、興味が湧くというくらいだった。
「そうね。不倫というか、結婚していない人が二股を掛けているというお話なんだけどね。それが自分と同じ世代の女性が主人公なので、ちょっと興味が湧いてきて読んでいるんですけどね」
と、あっけらかんと話した。
さっき、マスターに、
「私、失恋したの」
と言った人間と同一人物なのかと思うほどで、何よりも失恋という失意の中で、よく愛欲お恋愛小説など読めるものだと思えたほどだ。
「それ、面白いですか?」
えりなとしても、気にはなっているのだが、何を質問していいのか分からず、思わずそんな質問をしたが、漠然としている質問のようで、ひょっとすると、ストレートすぎる質問だったのではないかと、少し後悔した。
「ええ、面白いですよ。特に、私のように失恋した人が読むと、感慨深いところがあって、読んでいて、普段と違う感覚に戸惑いながらも、時間を感じさせないところがありがたかったりするの」
「さっき、失恋したと言われてましたけど、そんな時でも読める小説なんですか?」
とえりなが聞くと、
「それは人それぞれなんじゃないかしら? 失意の中でこんな本、開くのも嫌だと思う人は結構いると思うのよね。私もそうだったから。でも、一度開いてしまうと、普段とは違った感覚で読み込むことができて、嫌なことを忘れられるんじゃないかって思うほどになっているのよ」
「そうなんだ」
えりなには、理解しがたい感覚だった。
えりなも、一人前に失恋の経験くらいはある。
その時は友達に話を聞いてもらって、何とか切り抜けたつもりだったが、逆にそのことで友達を失くすことになってしまった。
話を聞いてくれている時は、相手も親身になって聞いてくれていると思っていたので、こちらも甘えてしまっていたが、相手にとって、えりなの話など、しょせんは他人事だった。