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いたちごっこ

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 付き合い始めてから、まだ数か月しか経っていない。
「えりなが僕の最初の女性で本当に嬉しいよ」
 と言っていた言葉が、まだ耳の奥に残っているほどの最近のことだったのだ。
 だが、それは二人の間で時間の流れの差が現れた証拠なのかも知れない。彼としては、そんな言葉を吐いたのは、かなり昔のことだったように感じていた。彼の方が先走った気持ちになっていて、その思いについていけなかったえりなは、まるでカルチャーショックを受けているようだった。
「結局、えりなはついてこれなかったんだよ」
 と彼はえりなに罵声を浴びせるわけではないが、それ以上の屈辱をえりなに味あわせたのだ。
 それは、彼の口調が完全に、
――上から目線――
 であり、それまで彼の主でもあるかのように思っていたえりなには、信じがたいものだった。
「ついてこれないって?」
 とえりなが反復すると、
「そう、そういうところなんだ。えりなは、俺の主であるかのように言っているけど、結局主であるための大切な何かが欠けているんだと思う。最初は何かが欠けているということさえ分かっていなかった俺は、えりなの従者となっていたけど、俺は奴隷じゃないんだ。主従関係にあったとしても、そこにはケースバイケースで、ギブアンドテイクが備わっていなければいけないと思うんだ。そのことをえりなは分かっていない。あくまでも、君は自分が主として俺に接することだけが、僕に与えるものだとしか思っていなかっただろう? それは、相手に何かを気付かせる一つのきっかけになるのさ。そのきっかけが最初はどんなに小さなものでも、不変の態度で挑んでくる相手であれば、絶対に小さなものはどんどんと大きくなってくるものさ。そのことに気付いた俺と、まったく気付かなかったえりなの間には、もう埋めることのできない遠い距離が生まれてしまったというわけさ。もうどうすることもできないね……」
 そういって、彼はえりなを見下した。
 えりなは、ハッとして、彼を見上げた。
 今まで見下ろしていた相手から見下されることに、屈辱しか感じることのないはずなのに、えりなは見下されることで、それまで気付かなかった何かに気付いた。
――そうだわ。こんなに相手の顔が近くに見えるなんて――
 見下ろすよりも、見上げる方が、同じ距離であっても、近くに感じるということは分かっていた気がする。
 だが、もう一つ別の感覚も浮かんできた。
――見下ろしている相手の顔には影が掛かっていて、その顔をハッキリと見ることができない――
 という思いだった。
 そして、もう一つ感じた思いがあって、それは相手の顔がハッキリと分からないことからの派生であるが、
――何て怖いのかしら――
 相手の表情が分からない。それがこれほど恐ろしいものだということにいまさらながら気付いた自分が、怖いとも思った。
「やめて」
 えりなは、彼が自分に罵声を浴びせているわけではないと分かっている。
 だが、この冷静で淡々とした口調は、彼はなんでもお見通しで、まったく何も分かっていないのが自分だということを宣告された気持ちになっていた。これ以上聞いているのは、自分のプライドが許さない。
――プライド? いったい誰に対してのプライドなのかしら?
 いまさら、彼に対してのプライドなど、何の力もない。
 もっとも、彼に対してプライドなどあっただろうか? あったのは主という思いだけで、自分が主であれば、プライドなどというものは余計なものでしかないはずである。
 もし、プライドがあるとすれば、別れようとしている彼に対して、自分に未練があるような態度をとることではないだろうか。もし、そんな態度を彼に示すのであれば、今まで主であったことをすべて否定することになり、それは、自分のすべてを否定されるかのように感じたからだ。
 えりなはそれ以上言葉が何も出てこない。彼の方も何かを言おうという気はないようで、お互いに静寂の時間が過ぎていった。
 彼は、その時間を余裕をもって過ごしていた。その様子を見ているだけで、額から汗が滲んでくる自分を感じたえりなは、時間というものの遅さに、自分が焦れているんだということに気付いたのだ。
――時間なんて、本当に他人事だわ――
 またしても、他人事だと考えようとしている自分を感じた。
 他人事がいいことなのか悪いことなのか分からない。しかし、他人事という意識を逃げの気持ちで使っている自分をその時に感じていた。しかし、それは初めての経験であり、いつも感じている他人事とは明らかに違っていた。
――今日の私はどうかしているんだわ――
 と感じた。
 しかし、それこそが他人事である。どうかしているなどと、別れが目の前に迫っている女が考えることではないだろう。やはり、逃げの姿勢がそんな思いを抱かせていたのかも知れない。
 そんなえりなを見た彼は、
「もういいだろう。ここらでお開きと行こうじゃないか」
 彼の言葉はベストなタイミングだったのかも知れない。
「そうね」
 その言葉を聞いたえりなは、自分も今なら開き直れる気がした。
「じゃあ、お元気で」
「あなたもね」
 えりなは踵を返して歩いていく彼の背中から目が離せなかった。
 それは、未練からではない。ただ、小さくなっていく彼の背中を感じていた。普段もその日の別れに彼の背中を見るのが恒例だったが、その時は彼が小さくなっていくという感覚はなかった。ただ、遠ざかっていくという感覚があっただけだ。だから、彼が消えてしまうという思いはその時はまったくなかったのだ。
 しかし、永遠の別れになったその時、小さくなっていく彼の後ろ姿を見ていると、彼が目の前から消えていくのをずっと見ていたかった。それが別れの儀式だと思うからで、目の前から消える彼を見ることで、
――明日からの私は違う自分なんだ――
 と、またしても、もう一人の自分になったつもりで自分を見ていた。
 だが、これはいつもの他人事とは違っていた。それは、他人事として見ている相手は本当の自分であり、その日のえりなが見ている相手は、
――もう一人の自分――
 だったからだ。
 もう一人の自分の存在を感じたのはその時が最初だった。今までにも別れを何度か感じたが、今までの別れの時に感じたことのない思いだった。
 この別れが今までと違っているからなのか、それとも、えりなの今までの経験によって培われたものが、今回成就することで初めて感じられたものなのか、えりなには分からなかった。
――いったい、本当にどうしたのかしら?
 えりなは自分を鏡に映して問いかけてみたが、その答えを鏡の中の自分は与えてくれない。
 鏡の中の自分が本当の自分なのか、それとももう一人の自分なのか、えりなはその日から時々鏡を見ることで感じることがあった。そんな時のほとんどが、
――鏡の中の自分こそが本当の自分なんだわ――
 と感じるのだった。
 鏡を見ていると、上から目線である時、逆に自分が相手を見下ろしている時があるのを感じる。そんな時に限って、その日はあっという間に過ぎてしまう。
――今日、何かがあったように思うんだけど、それが何だったのか覚えていない――
 と感じる。
作品名:いたちごっこ 作家名:森本晃次