いたちごっこ
暗闇には恐怖を感じる。
しかし、夕凪という時間帯を意識するようになると、夜の暗闇がそんなに怖くなくなってきた。もっとも、他の人に、
「夜の暗闇に恐怖を感じたことあった?」
と聞くと、
「私はなかったわ」
という答えが結構な確率で返ってきた。
どうしてなのだろうと考えていたが、その原因が夕凪になるということを、最近えりなは気が付いた。
――夕凪の時間を意識して、夕凪という時間が恐怖であるということに気が付くと、それまで怖いと思っていた夜の暗闇がそんなに怖いとは思わなくなってきた――
というのが理由である。
えりなは自分が夕凪という時間を意識していることを誰にも知られたくなかった。知られてしまうと、
「何を余計なことを考えているの」
と、罵声に近いものを浴びせられる気がしたからだ。
もっとも、それが罵声でないとして、小声で言われた方が、ひょっとすると恐怖に感じるかも知れない。
信号機の黄色の存在は、夕凪の時間のように、グレーな存在だ。誰も黄色が青から赤に変わる時に存在しているのに、逆で存在していないことを不思議に思わないのと同じではないかと感じていた。
夕凪というのは、意識すればするほど、神秘的なものだという発想を、たぶん感じた人は皆思っていることではないだろうか。そのイメージが夢の世界にも繋がってくるなど、誰が想像できるだろう。
信号機の色を見ると、もう一つ感じることがあった。それは、
――夜と昼とで感じる色に違いがある――
という思いである。
黄色にはそれほどの違いは感じないが、青や赤には露骨に感じる。
ハッキリといえば、夜の方が鮮明に見えて、昼の方が曖昧な色合いに感じるということである。
夜には赤い色も青い色も、その色を最大限に生かすことのできる時間帯であり、昼間では赤も青も色としては曖昧であり、特に青などは、昼間は緑に見えているのに、夜は真っ青という違いを感じる。
実際的なことを考えると空気に含まれている粒子が、昼間には邪魔をしてハッキリとした色合いにさせないのか、それとも畜舎日光が目の錯覚を誘うのか、そのどちらともに言えることなのではないかと思えた。
――じゃあ、夕凪の時間はどっちなんだろう?
と思ったが、そのどちらでもないような気がした。
しかし、夕凪の時間の存在を考えれば、夜にハッキリと見えるのも理屈としてはありえることではないかと、えりなは感じていた。
夕凪の時間帯は、昼間に蓄積された疲れが一気に噴き出してくる時間だ。暑かった日であっても、夕方になれば、かなり気温も下がってくる。しかも、それまで吹いていた気持ちよかった風がやんでしまう時間ではないか。風がやんでしまったことを意識しているわけでもないので、疲れが癒されると思っているが、実際にはそんなことはない。感じないだけに、余計な疲れが蓄積されるのだ。
だから、夕凪の時間帯というのは、空腹になる時間である。
――夕方になるからお腹が空くんだ――
と思っていたが、あながちそれだけではないように思えてきた。
夕凪の時間帯はなぜか汗が噴き出してくる。風がないだけに、余計に噴き出した汗を吸い込むことがっできずに、身体から流れ出すような感覚に陥る。それが疲れを誘うのであって、感じた疲れは、夜まで引っ張るので、そのために夕凪の時間を意識することがない理由に繋がっているのかも知れない。
夕凪の時間を過ぎると訪れる夜の世界。えりなは、それを目が覚めた時だと思うようになった。実際には朝なのに、夕方から夜を思い浮かべるというのは、これほど奇抜な発想もないだろう。それだけに、
――こんな発想を思い浮かぶ人はいないだろうな――
と感じ、夢と現実の狭間を夕凪の時間に結びつけて考えるなど、自分だけではないかと考えるのだ。
信号から夕凪の発想へのステップアップな発想は、昔子供の頃に聞いた、
「わらしべ長者」
のお話を想像させた。
あのお話は、確かある男が神様からのお告げで、
「最初に掴んだものを大切にしなさい」
と言われて、それを大切に持っていると、あとから物々交換を重ねていくうちに、どんどん高価なものに変わって行って、将来男は幸福になったというそういうお話ではなかったか。
ハッキリとした順序や交換したアイテムまでは記憶にないが、このおとぎ話が印象的だったことだけは覚えている。
「このお話は、外国にも類似するお話があってね」
というのを教えてくれた人がいた。
そう思うと、どんなに離れていて交流がなくても、人間であれば、考えていることにそれほどの大差はないと思えてきた。
――それとも、本当は交流がないと思っているだけで、実際には交流があったのかしら――
とも考えられたが、それよりも、人間の発想の方に信憑性が感じられ、えりなは自分の最初に感じた考えを、ずっと信じてきた。
おとぎ話と聞くと、桃太郎や浦島太郎のような話を思い浮かべる、ここで出てきた「わらしべ長者」の話を思い浮かべる人は少ないだろう。
しかし、わらしべ長者と聞くと、皆それぞれに考えがあるようで、
「ステップアップというお話は、一番夢を見せてくれそうだわ」
という人が多かった。
えりなは、おとぎ話と聞くと、真っ先にわらしべ長者を思い浮かべた。
「それは、えりなの願望が表に出ている証拠なんじゃないのかな?」
と、友達に言われたことがあったが、まさしくその通りなのかも知れない。
ただ、自分にはそんなに欲望が深いという意識はなかった。どちらかというと、
――欲は深くない方だ――
と思っていた。
えりなにとって、自分が、
――いたちごっこを繰り返している――
と感じている時点で、自分がわらしべ長者のようになれるという思いはなかった。
――そんなにうまく行ったら、誰も苦労しないわよ――
と、少し拗ねた感覚を抱いているほどだった。
えりなにとって、いたちごっこのような性格は、
――避けて通れない運命のようなものだ――
という意識だったのである。
人には、定めのようなものがあり、それは表に出ているものと、性格のように内に籠めているものとがあると、えりなは思っている。この「いたちごっこ」という発想も、その一つだと思っている。
ただ、定めというものはその人にたくさんあるわけではなく、表に出るものと内面的な性格と、それぞれ一つなのではないかと思っている。しかも、それぞれに関係性があって、他の人には理解できないことでも、自分には分かるものだと思っている。
夢の共有という発想を口にしたあゆみの話を吟味しながら聞いていた。そうするといろいろな派生した考えが浮かんできて、それが「わらしべ長者」のお話を思い起こさせる。えりなにとって「わらしべ長者」は、「いたちごっこ」が内面であるなら、こちらは表に出ているものだという意識が生まれてきたのだった。
えりなは最近夢の中で、よくあゆみが出てくるような気がする。ただ、今から思えば、――あゆみが自分の夢に出てきたのは、あゆみと知り合う前たったのではないか?
と思うようになっていた。
しかし、もしそうであるなら、最初にあゆみに出会った時、
――どこかで会ったことがあるような気がする――