いたちごっこ
――夢の中でくらいは、いたちごっこではない自分を見てみたい――
という思いが、百パーセント以上の自分を演出しているのではないかと思うと、夢には発展性があるような気がしてきた。
もし夢の中で見たことが現実になるのだとすると、自分は発展性に乗ることができるかも知れない。ただ、見たことが現実になるという発想ではかなりの無理があるが、編実にあったことを夢で見て、夢の中で発展させるという発想は無理があるだろうか?
夢には限界があって、現実世界で深い印象を受けたことであったり、忘れられないようなことを夢に見ることはあると思う。しかし、それは本当に素直な夢として見ることができるものなのだろうか。若干、歪んだ形で夢というのは、見せるものではないか。
ただ、
――夢に見たかも知れない――
と感じても、目が覚めるにしたがって忘れていってしまうのだから、本当に歪んでいたのかどうか、定かではない。
――そうだわ、宿題を覚えていないのも、宿題を出されたという意識が夢の中での意識と交錯してしまったことから覚えられないのかも知れない――
そう思うと、その感覚はえりなにだけあるものではなく、しかも、人によって対象が違っているのではないかとも思えた。
えりなにはそれが、
――宿題を覚えていない――
ということであって、他の人は違うことを覚えていないのだろう。
宿題を忘れてしまうことは、すぐに公表されることなので、目立ってしまうが、他の人は目立たないところで忘れているので、自分から公表しないと誰も分からないことであれば、えりなに分かるはずもない。
特にこういう忘れっぽいという性格は、なるべくなら人に知られたくないと思うのが当然であろう。
また、忘れてしまいそうな話を夢に見るというのも皮肉なことだ。えりなが宿題を忘れてしまう夢を見るのは、実は中学を卒業してからのことだった。中学卒業前にはすでに宿題を忘れるということはなくなっていたが、今から思えば宿題を忘れていたという時期に、本当であれば何かがあってもしかるべき時期だったように思う。それを知らずに過ごせたというのはえりなにとって幸いなことだったのかどうか、すでに中学を卒業してしまったえりなには分からなかった。
ただ、中学時代のことをいまだに夢に見るというのは、何かがあったはずのその何かを探そうという思いが無意識に芽生えたからではないだろうか。中学生の頃には、えりなはまわりの友達と無邪気に笑い合っていた印象が強いが、皆何かを隠していたように思えてならなかった。
考えてみれば、えりなが宿題を忘れてきたことを、大げさに吹聴したのは、まわりの皆だった。そんなに大げさに騒ぎ立てることなどなかったはずなのに、そのせいでえりなの中で、自分への疑念が湧きあがっていたのだ。
それも、まわりが自分に疑念を持たれないようにするために、えりなを自分の殻の中に押し込めようとしたからなのかも知れないと思うと、理解できないこともない。ただ、おおっぴらにやってしまうと、成長期のデリケートな精神状態、えりなが鬱状態にでも陥ると、そのそばにいる自分たちにもその影響があり、鬱になってしまうことを恐れてのことだと思うと、少し怖い気もする。
――皆、そこまで本当に考えているんだろうか?
と感じたからだ。
一つの大切なことを隠そうとすると、まず考えるのは、
――たくさんの中に紛れ込ませることだ――
という思いであろう。
「木を隠すなら、森の中」
ということわざもあるし、
「一つのウソを隠すには、九十九の本当の中に紛れ込ませればいい」
という話も聞いたことがあった。
それこそ、心理学の世界の話のようだ。
えりなが心理学を志したのは、漠然とした思いの中で、出した結論だと思っていたが、果たしてそんな中途半端な気持ちだけだったのだろうか?
ここにも夢が絡んでいたように思えてならない。どうしても、夢が絡んでくると、大切なことであっても、忘れてしまっていることが多い。
いや、大切なことだからこそ、忘れてしまっているのかも知れない。
そんな思いがえりなの中にあり、時々自分が箱庭の中にいて、その上から誰かに見られているような錯覚を感じることがあった。
しかも、箱庭を見ているのは自分である。交互に箱庭の中にいて見つめられている自分と、箱庭を覗いている自分を感じることができる。
えりなは、本当はそんな器用な人間ではない。子供の頃に親がえりなにピアノを習わせようとしたことがあったが、えりなにはピアノの才能はなかった。才能以前に致命的な欠点があったのだが、それが、
――左右の手で、別々の指の動きをすることができない――
というものだった。
つまり、平衡感覚によるものなのだろうが、左右で同じ動きをしないとついていけないことを自覚してしまったのだ。
いったん自覚してしまうと、意識することでそれ以上の上達はありえない。ピアノは断念するしかなくなってしまった。
だが、夢の中でえりなは、ピアノを器用に演奏することができていた。それを見た夢の中の母親が実に満足そうな顔をしたので、えりなはピアノを夢の中でも演奏することはなかった。
――どうせなら、現実世界でお母さんにあんな顔をしてほしかった――
という思いから、夢の中であっても、ピアノを弾くことはなくなってしまったのだ。
えりなの夢の中はそんないろいろな思いが渦巻いていて、
――私の夢は変わっているんだわ――
と感じさせた。
しかし、夢の世界とはそういうもので、他の人も同じようなことを感じながら夢を見ているのではないかと思うようになった。
それでも、一部では、
――夢というものを本当に皆見ているんだろうか?
という思いもあり、他の人と同じでは嫌だというえりなの中の本質が、夢の中では出てこないように思えていた。
夢を見ていて感じることで、
――夢には、色も匂いもない――
ということがある。
実際に、夢に色があったり匂いがあったりという思いをした覚えがないので、人から言われると、その通りだと思うのだった。
しかし、匂いも色も本当にないのだろうか?
もし、色や匂いがないのだとすれば、色がなければ、目の前にバラがあったとして、それをバラだと認識できるだろうか? えりなはそれほど植物に詳しいわけではない。赤い色をしているからバラだと思うのであって、白黒の世界で、本当にそれがバラだと認識できるのかと言われれば自信がなかった。
匂いにしてもそうである。香水の匂いを感じたという意識を持った夢を覚えていることがあったが、それも匂いを感じたから覚えていたのであって、無味無臭であれば、色もなければ匂いを感じることなどないのではないだろうか?
ただ、先入観というものはある。その人がいつも同じ香水をつけていて、意識の中に、その匂いが残っていたのだとすれば、香水の香りを感じたと思い込んだとしても無理もないことだ。それが潜在意識として夢を見せたのだとすれば、夢の中に色や匂いがないという感覚になったことも頷ける。
何よりも夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくという前提となる意識があるからだ。
えりなが忘れっぽいと思っているのは、