いたちごっこ
祖母は、入院をしていない。どうやらもういけないということは本人にも告知されていたらしく、
「死ぬなら自分の家で」
という本人のたっての願いということで、病院側も臨戦態勢だけは取っていたという。
家に帰ると、祖母はすでに亡くなっていた。えりなは自分が死に目に会えなかったことよりも、自分のためにおじさんが死に目に会えがなかったことに申し訳なさを感じていた。
――私さえ迎えに来なければ――
という思いが強く、なぜか祖母の死を聞いても悲しくはならなかった。
ただ、まわりの人が皆悲しんでいる姿を見ると、
――悲しいことなんだ――
ということは分かった。
それでも、通夜、葬儀と儀式が続き、最後に火葬場に向かい、棺桶が火葬される瞬間になると、急に寂しくなった。
――本当に悲しいものなんだ――
と感じたが、どうしてそれまで感じなかったのか、不思議で仕方がなかった。
火葬は一時間ほどだったが、悲しいのもそこまでで、家に帰ってくれば、悲しさは消えていた。
――あの思いはなんだったのかしら?
えりなは、悲しくなかった時間よりも、短い時間であったが悲しくなった自分を哀れに感じたが、その思いの正体は分からなかった。
学校におじさんが来てから、火葬が終わるまで、あっという間に過ぎた気がした。久しぶりに行った学校では、いつものように授業を受けて、帰りには自転車で帰った。その時に乗った自転車が、
――本当に久しぶりだわ――
と感じた。
授業を受けている時は、久しぶりだという感覚はなかったのに、どうしたことなのだろう。
その日は、なぜか普段と違ったことがしたくて、普段は坂を上る時は自転車を降りるのに、その時は自転車から降りることはなく、助走をつける形で、一気に坂を駆け上がったのだ。
その時の心境はよく分かっていないが、それで何かが吹っ切れたような気がした。その信教が、も二度と会えない祖母への鎮魂の気持ちだったのか、
――きっとそうに違いない――
という思いがあるだけだった。
そんなことを思い出しながら、自転車を手で押して上っているえりなだったが、坂の途中にある家が急に気になった。
えりなの住んでいる町は、坂の途中にはまだまだ昔の家が残っていて、農業をしている家もあったくらいだ。広い土地に昔の家屋と、新しく増設した家屋が隣り合わせに立っているところもあるくらいだ。
そんな一軒の家の手前に井戸があるのだが、道からその井戸を見ることができる。
その家は夜になると、暗いと危ないということなのだろうが、井戸を照らす街灯が立っている。
えりなは今までその家のことを気にしたことなどなかった。部活で夜のとばりが降りてからの帰宅も時々あったし、同じようなシチュエーションも、その日が初めてではなかったのだ。
井戸を照らす明かりが、その日はなんとなく気になった。普段よりも少し暗く感じたからで、最初は横目にチラッと見ただけだが、ここまではいつもと同じであった。
いくら気にしないとはいえ、井戸のところだけ街灯がついていると、無意識にではあるが、チラッとでも見てしまうのは仕方のないことである。
その日のえりなが普段よりも暗く感じたのは、そこにいつもとは違い、誰か一人、佇んでいる人がいるのを感じたからだ。
薄暗い中に佇んでいるその姿は、影が大きさを反映させるのか、最初は大きく感じられたが、よく見ると、それほど大きな人ではないのが感じられた。
――子供?
そう思って見ていると、まだ十歳くらいの男の子ではないか。坊主頭の少年が、井戸を見ながら佇んでいる。これほど恐ろしさを醸し出している雰囲気もないだろう。
――目の錯覚じゃないの?
と自分の目を疑ったが、見れば見るほど、少年の存在が大きくなっていく一方だった。
少年は井戸を見ている。井戸から少し離れてはいるが、えりなが少し立ち止まってその様子を見ていたが、彼は井戸に近づこうとはしない。一定の距離を保ちながら前に進もうとも後ろに下がろうともしない。
――いったい何を考えているのかしら?
井戸を見つめているのは間違いないが、井戸の中を見るわけではない。
まるで足に根が生えたかのように微動だにしない姿を見ていると、
――瞬きすらしていないように見えるわ――
実際に顔の表情が見えるわけではないが、この状況を考えただけで、少年が瞬きをしていないという思いが浮かんでくるのだった。
どれくらいの時間が経ったのだろう?
えりなは、自分の足にも根が生えてしまったのではないかと思えるほど、足の感覚がなくなっていた。
――このままではまずいわ――
えりなが考えたのは、少年に気を取られていては、自分がここから一歩も進めなくなるということに気が付いたからだ。
――急いでここから逃げなければ――
逃げるという表現を初めて思い浮かべた。えりなは、その少年に恐怖を抱いていたことを、いまさらながらに思い知らされた気がした。
えりなは、少年に取られていた気を取り戻そうとしていた。しかし、すぐには戻ってこない。まるで少年に呪縛を与えられたのではないかと思うことで、少年に気付いてしまったことに後悔した。
もう、こうなったら、少年のことなどどうでもいい。何とか自分がここから逃れることだけを考えなければいけない立場になった。
そんなことを考えていると、意識が遠のいていくのを感じた。
――どうしちゃったのかしら?
逃れたいと思う気持ちとは裏腹に意識が遠のいていく自分の状況に、そのまま流されてもいいとも感じていた。
えりなは、意識が完全になくなっていた。そして気が付けば、家の布団で寝ていた。
起き上がって部屋を出ると、台所で母親が家事をしていた。
「あ、えりな大丈夫?」
口では大丈夫と聞いていたが、別に慌てている様子はなかった。
「私、どうしちゃったの?」
と聞くと、
「覚えていないの?」
と言われたので、
「ええ」
としか答えられなかった。
「あなた、昨日帰ってきて、いきなり玄関先で倒れ込んで、そのまま気を失ったのよ。お医者さんに来てもらったけど、悪いところはないということで、『相当の疲労が溜まっているだろうから休ませてあげなさい』って言われたの。だから無理に起こすことはなく、ずっと寝かせていたのよ」
と言われて、えりなは反射的に時計を見た。
「五時半を指しているけど、今はいったい?」
「あなたが帰ってきてから、丸一日近く経っているのよ。今は次の日の午後五時半なのよ」
と言われた。
「そんなに長く?」
「ええ」
えりなは、昨日(と言われた)のことを思い出していた。
思い出せるのは、井戸のそばにいた少年のことだった。
――彼はどうなったのだろう?
と思ったが、その時は自分が気を失ってしまったことで仕方がないと思うしかないと感じていたのだ。
だが、実際にはそれがトラウマになってしまったようだ。
何がトラウマなのか、正直分からない。
――少年が、あれからどうなったのか、自分が何とかできなかったことがトラウマなのかしら?
それとも、
――肝心なところで気を失ってしまったことがトラウマなのかしら?
そのどちらかなのだろうが、結論は出なかった。