いたちごっこ
「いえいえ、免疫ではなく、自分を抑えるということに抱いた疑念が大きくなってくるということです。心理学を専攻しているえりなさんなら、分かるんじゃないかって僕は思っていますよ」
「どういうことかしら?」
「あなたは、過去に何かのトラウマがあって、目の前の誰かと争奪のような関係になった時、普通の人なら、相手に気を遣って譲るのが大人の行動だって思うんでしょうけど、あなたの場合は、そのために後悔することを望んでいないように思うんです」
一番看過されたくない部分を彼は抉ってきた。
「人の一番触れられたくない部分に、土足で上がり込むような発言はいかがなものかと思うのですが?」
怒りを堪えて、何とか言葉を選びながら話をしたつもりだったが、
「その口調自体が、あなたの性格を表しているんですよ。でも、それはあなたがその性格を悪いと思っているから、人に看過されたことを土足で踏みにじられたと思うんでしょうね。そもそも、そこからが違っているんですよ」
「じゃあ、あなたは私のような性格の人を好きになれますか?」
と聞くと、
「それも違っている。私はそんな性格の人が好きなんです」
「どうして、そう言い切れるんですか?」
「だって、僕が一番あなたのことを理解できる人間ではないかと思うからです。そして、自分に近い人間だと思いますしね。要するに、私もあなたと同じ穴のムジナなんですよね」
と言われた。
そう言われて、どこか安心している自分がいたが、それよりも、彼に対して、
――この人は何者なの?
という思いであった。
ここまでくれば、見ているのが夢であるという認識は強かったが、もうそんなことはどうでもよかった。
――夢なんだから、自分にもっと都合よく見れていいんじゃない?
と言い聞かせるが、夢を見ている自分は夢の中の主人公であり、実際の自分ではない。
もっとも、今まで見た夢で、自分に都合のいい夢など見ることができたというのだろうか? 夢というのは確かに潜在意識が見せるものなのだろうが、そのことを意識していればいるほど、意識とは裏腹な夢を見てしまう。
――元々、ノンフィクションよりもフィクションの方が先だって思っていたじゃないの――
それは本や映画の話であって、実際に見る夢とは違う。だが、夢というのは、そのほとんどを覚えていないという感覚を考えれば、覚えている夢がフィクションばかりだと思うのもあながち間違いではない。
そう思うと、自分の考えから逸脱した夢であるのが必然であり、当然、思い通りにいかない夢がほとんどだと理解もできる。
だが、それは自分にとって不本意なものであり、本質的な考え方から離れているように思えた。夢に出てきた彼も、完全に自分の創造であり、普段の生活では絶対に出会えない人だと思うと、却ってあきらめがつくというものだ。
こんなおかしな考え方を持っているえりなは、彼の言葉の一言一言が、目が覚めても忘れることがないだろうと思っていた。
――もし、忘れていたとしても、必ず何かの拍子に思い出すことであって、その拍子は必ず訪れるものに違いない――
と勝手に思い込んでいた。
それに、一度見た夢の続きを見ることなどありえないと思っているので、この男が夢に出てくることもないだろう。もし夢に出てきたとしても、その夢はきっと記憶の奥に封印され、二度と表に出ることはないと思うのだった。
「えりなさんが触れられたくないことだって言っているけど、実際には誰かに自分を分かってほしいと思っているはずですよ。実際の友達や、自分と利害関係のある人からこんなことを言われると困惑し、憤慨するかも知れないけど、私のような、夢の中に出てきた人から言われただけなら、現実に戻るとすぐに忘れられると感じていると思いますよ」
と彼は言った。
まさにその通りなので、本当であれば、言い返しなどできないはずなのだが、彼の言葉の中に、
――夢――
という言葉が含まれていたことで、えりなは、自分が彼に対して優越な立場にいるのではないかと感じた。
「ええ、あなたは、やはり私の夢の中に出てきただけの人だったんですね。ということは私が持っている潜在意識の中でしかいられない人なんですよね。つまりは、私にはあなたに対しての絶対的な優越が存在していて、私が思えば、あなたは存在することができなくなるはずなんですよね」
というと、
「確かにそうですね。でも、あなたにはそんなことはできない。できるはずはないんですよ。もっというと、あなたが私に対して優越感を持っている時点で、あなたは私から逃れることはできない。いいですか、ここは夢の中の世界なんですよ。現実の世界の考え方なんて通用しないんです。それを捨てることができない限り、あなたは私に対して優越を持つことなんかできるはずはないんです」
彼の言う通りだと思った。
――そうか、ここは夢の世界なんだ。私は現実の世界の人間で、夢を見ているだけ、実際に夢の世界の人間に適うわけはないわ――
と感じた。
「どうやら、あなたにも分かったようですね。でも、私もあなたのいる現実世界では、どんなに頑張っても、あなたに適うわけはない。だから、あなたの前には絶対に姿を現さないんですよ」
「それは、あなただけのことなの? 今の話を聞いていると、夢の世界に出てきた人は、現実世界でも存在しているように聞こえるんですが」
「ええ、存在していますよ。でも、今言ったように、夢の世界の人間は、現実世界のあなたたちよりも、少し自分の立場を分かっていて、そのために、優越が絶対的に不利になると思われる現実世界で、夢の世界で出会った人と出会うことはないんです」
「でも、中には出会うこともある人っているんじゃないですか?」
「ええ、間違って出会ってしまう人も確かにいます。でも、その人は夢の世界と現実世界を混同してしまって、自分から抜けられなくなるんです」
「どうなってしまうんですか?」
「二人は、それぞれ入れ替わります。でも、入れ替わったという意識はないんですよ。今まで現実だと思っていた世界が夢になり、夢だと思っていた世界が現実になる。しかも、それはお互いに意識せずにですね。あなたもそうかも知れませんがあなたのそばにもいるでしょう。以前にどこかで見たことがあるような景色を見たり、人を見たという現象にぶつかることが」
「ええ、いわゆるデジャブ現象ですね」
「はい、心理学や科学を専攻している人は、そのメカニズムを研究し続けているんでしょうが、きっと誰にも分からないと思いますよ、人間にはしょせん、夢の世界と現実世界の両方を理解することができる人なんかいないんですからね」
「じゃあ、私とあなたが、今こうやってお話をしているというのはどういうことなんですか?」
「このお話は、あなたがある程度するとすぐに忘れてしまうと思います。ただ、覚えていたとしてもあなたにはどうすることもできない。人に話しても、あまりにも奇抜な発想すぎて、誰も信じてくれないでしょうね。特に心理学者や科学者というのは、自分の考えと少しでも違う人の意見をなかなか取り入れようとはしない。下手なプライドがあるからなんでしょうが、それはそれで仕方のないことなんですよ」