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いたちごっこ

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 しかし、最初から夢だという意識を持っていたことで、彼がいう
――この世界の人――
 という言葉の意味が分かる気がした。
 ここはえりなの夢の中だと考えれば、彼が発する言葉というのは、えりなが考えている言葉でしかないことは明白である。
「えりなさんは、田舎に憧れているんですか?」
 と、彼は言った。
 それは、自分がさっき、車窓から感じた田んぼの風景を言っているのだとすぐに分かった。
「田舎に憧れているというか、田んぼの風景は時々想像することがあるんですよ。ただ、電車に乗っている時に感じたことはなかったんですけどね」
 というと、
「えりなさんは、最近電車の中に何か忘れ物をしたことがありませんでしたか?」
 と言われて、ハッとした。
 あれは、数日前のことだったが、いつものように席に座ってボーっと車掌からの風景を眺めていたが、自分の降りる駅になって、駅に電車が滑り込んでいるにもかかわらず、降りる駅だという意識が飛んでしまっていた。扉が開いてすぐ、
「あっ」
 と気が付いて、急いで扉に向かったのだが、その時、正面の席に座っていた人が、
「すみません、あの財布、あなたのではないですか?」
 と声を掛けてくれた。
 反射的に振り向くと、そこには見覚えのある財布が座席の上に落ちていて、思わずえりなはポケットを探ってみた。
――ない――
 そう思うと、目の前にある財布が自分のものであるということを理解した。
「ありがとうございます」
 と言って、財布を取り、すぐに電車を降りようとしたが、時すでに遅く、扉が閉じてしまった。
――ああ――
 と思ったが、財布がないよりも一駅乗り過ごすことくらいなんでもないことのように思った。
 ゆっくりと、気持ちを落ち着かせてきたが、そのうちに、苛立ちを覚える自分を感じた。
――財布さえ落とさなければ、自分がボーっとさえしていなければ、今頃電車から降りて、家路についていたはずなのに――
 と感じた。
 そう思うと、まわりの視線が急に憐れみを帯びているかのように感じられた。その思いはえりなにとって、耐えがたいものに感じられた。
――どうして私がこんな思いをしなければいけないんだ?
 考えてみれば、財布を落とした自分が悪いはずなのに、何をこんなに苛立っているのか、自分でも分からない。
 しかも、自分が悪いことなので、怒りがあっても、それをぶつけるところなどあるはずもないことを分かっているはずなのに、怒りのやり場に困っている自分に苛立ちを覚えているようだ。
 そんな時のえりなは、精神状態が空回りしている。その時に感じたのは、先日ペットショップで見た。小屋の中を永遠に走っているハツカネズミの姿だった。
――私はあのハツカネズミなんだわ――
 堂々巡りを繰り返し、いつ果てるとも知れないマラソンを続けているような気分だった。倒れても倒れても走り続けないと、後ろに迫っている奈落の底に叩き落とされるという感覚なのだ。
 えりなはそれを、
――怖い夢――
 として認識している。
 幽霊が出てきたりするような、ハッキリと恐怖を感じるものではないが、漠然とした恐怖が襲ってくる。それが今の意識の中でイメージするのが、ペットショップで見た、永遠に走り続けるハツカネズミだったのだ。
「えりなさん、その時、自分が財布を落としたことを、本当は自覚していたんじゃないですか?」
 何をいうかと思えば、想像もしていなかったことが彼の口から洩れてきた。
 それと同時に、
――この子、あどけない表情をしているけど、相手の考えていることをすべて看過しているようで怖いわ――
 と感じた。
「そんなに怖がらなくてもいいですよ。ただ、僕はえりなさんが考えていることも分かっているし、意識していないつもりでも、意識していることが分かっているだけですからね」
 と言われて、またビックリした。
「それだけ分かっていれば、私よりも分かっているということじゃないですか。こんなに怖いことってあるのかしら?」
 と、えりなは彼に挑発的な言葉を使ったが、それは空元気にも似たもので、子供が暗い夜道を歩いていて、恐怖から、大声で叫んでいるような感覚に似ていた。
 それは、何かあった時にまわりから助けてもらいたいという思いよりも、自分の存在がこの場所にあるのだということを、他の人にも知ってもらいたいという気持ちの表れではないだろうか。
「えりなさん、そんなに怖がらなくてもいいですよ。あなたが思っているように、ここはあなたの夢の世界です。ただ、これは私の世界でもあるんですよ。えりなさんは、そのことを理解できていると思っていますが、ただ、それを認めたくないと思っているだけなんですね」
 と彼は言った。
 心理学を専攻しているえりなにとって、非科学的なことでも、少しは理解できるつもりでいたが、逆に人の心理というのも、一種の科学だと思っている。そう思うと、
――科学というのがすべて理屈で証明できるはずだという考え方自体が、科学に対しての冒涜ではないか――
 と考えられるのではないかと感じていた。
 そのうえで、
――科学には、使ってはいけないものもある。それが人間の心理を利用するものではないだろうか――
 というものだった。
 えりなは、心理学の立場から、この発想は認めていた。ここでいう、
――使ってはいけない科学――
 それこそ、心理学ではないかと思っている。
――使う――
 という言葉は、
――利用する――
 という言葉に置き換えられるのではないだろうか。
 利用したり、利用されたりするというのは、俗世間ではこれほど人間臭いことはないと思われがちだが、科学を利用し、科学から切っても切り離せない生活をしている人間に、いまさら利用したり利用されたりすることに対して、あれこれいうのは筋違いというものである。
「えりなさんは、普段は自分がいつも他人事として世の中を見ているとお考えですよね?」
 と言われて、
「ええ、そうです。でも、それが何か?」
「えりなさんは、この間財布を落とされた時、財布があったことを素直に喜んでいましたけど、その後はどうでしたか?」
 と言われて、固まってしまった。
――やっぱりあの時、私は財布があった喜びよりも、そのあと、電車から降りれなかったことを後悔していた。それは仕方のないことで、自分が悪いことだけに、余計に苛立ちをどこにぶつけていいのか分からないという思いから、内に籠ってしまったような気がする――
 と考えていた。
 それを彼に看過されたということは、夢の中だと考えれば、自分の中でしこりのようなものが残っていたということになる。
 彼は続けた。
「えりなさんは、別にそれでいいんですよ。自分の苛立ちをどこにぶつけていいのか困っていたわけでしょう? ただ、それを自分でちゃんと意識せずに忘れてしまうと、将来また同じようなことが起こると、今度は自分で抑えておくことができなくなると思うんです。つまり、一度抑えてしまうと、もう一度同じことが起これば、抑えが利かなくなるんじゃないかってですね」
「それって、免疫ができるから、緩んでくるという発想とは逆じゃないんですか?」
作品名:いたちごっこ 作家名:森本晃次