短編集38(過去作品)
夢というのはいろいろな思いが交差して、普段では考えられないようなことが起こる世界である。それは時間を超越した感覚を持つことができるからで、例えば中学時代の夢を見ていたとしても、社会人であることを意識している自分がどこかにいるようだ。
夢の中に出てくる小夜子のイメージが、妻の美恵子とダブってしまうのも仕方がないことかも知れない。しかもダブっている部分が美恵子と知り合った頃の一番楽しい頃というのも皮肉なもので、それだけ美恵子と出会った頃のことが忘れられない証拠でもある。
小説の内容は夢を追いかけているように思える。一生懸命に小夜子をイメージしても、浮かんでくるのは美恵子の顔である。
そういえば、知り合った頃の美恵子の顔を忘れていた。一緒に住んでいる頃は覚えていたのに、今ではなかなか思い出せない。
――どんな顔だったかな――
と想像すると、それは自分が思い浮かべている小夜子の顔とダブってしまう。
――小夜子のイメージは知り合った頃の美恵子のイメージなんだ――
と思えてならない。
美恵子がどんな女だったかを、思い出そうとしている自分に気付く。
――どんなことでも分かってくれて、自分でも気付かないことに気付いてくれる気が利く女性で、しかもそれをさりげなくできる優しい女――
これが美恵子のイメージだ。
自分にとってはできすぎた女房だった。
「杉田君はきっと一番最初に結婚するでしょうね」
と高校時代に言われたのを思い出していたが、最後に彼女が付け加えていたっけ、
「杉田さんと結婚する女性は、本当に素敵な女性なんでしょうね」
「ありがとう」
その時はあまり深く考えなかったが、裏を返せばそれだけ幸一の性格が難しいということではないだろうか。
普通の女性ではなかなか理解できないところがあるということで、よほど相手をしっかりと見据えて、理解できる女性でないと幸一の相手は務まらない。
「だから私はだめなのね」
と言わんばかりだったに違いない。
天真爛漫な美恵子、まさしくそんな女性だった。幸一はそんな美恵子に甘えすぎていたのかも知れない。
それだけにまだ見ぬ女性小夜子に対する思いは、知り合った頃の美恵子のイメージでいっぱいなのだ。
小説の中の小夜子、最初は清純な女性を描いているつもりだったが、いつの間にか妖艶な雰囲気の女性に変わっていた。まだ見ぬ女性に対しての思いと、女性との交わりのない寂しい身体の暖かさを欲している気持ちとが募ってきているからに違いない。
知り合った頃の美恵子をイメージしていたのが少しずつ変わってくる。あどけない表情には大人の色香が混じっていて、香水の香りをイメージしていたが、それもほのかなものから柑橘系へと変わってくる。
活発なイメージだったはずなのに、気だるさを感じさせる女性が頭に浮かんでくるのはなぜだろう? 幸一自身、自分がどんな女性を好きだったのか分からなくなってくる。
美恵子のことが忘れられないということに気付いたのは、小夜子が妖艶に感じられるようになってからだ。
それを教えてくれたのが、小説の中の小夜子だった。イメージが素直に文章になって現れるほど自分に文章力があるわけではない。そのことを一番知っているはずの幸一だったが、イメージを膨らませることは自分の中の小説世界を充実させるものである。
入院してしばらくは小夜子のことが頭から離れなかった。
――今どうしているんだろう? 連絡が取れないので心配しているに違いない――
と、連絡が取れないことを心配していることだけが気になっていた。本当なら、
――自分のことを忘れてしまうんじゃないだろうか――
という心配をしてしかるべきなのに、まったく頭にない。これもネットという不思議な世界の成せる業なのだろうか。
小夜子に求めた女性像は、出会った頃の美恵子だった。
何も言わなくとも分かってくれる女性。それだけでよかったのだ。
今の美恵子は幸一にとって一番付き合い辛い女性になってしまった。つい最近まで何でも分かってくれる女性だと思っていただけに、それまでは会話らしい会話をしてこなかっただろう。
「私たち夫婦は喧嘩なんてしたことないんですよ」
というのが自慢だった。幸一が新婚当時連れてきた部下に話したのを、横で美恵子はどんな気持ちで聞いていたのだろう。その頃は空気の入る隙間もないほどに気持ちが通じ合っていたはずなので、同じ気持ちだったに違いない。
「最近、妻の表情が暗いんですよ。ほとんど相手にされていないって感じで」
馴染みの喫茶店でボヤいたが、それを聞いたマスターは、
「それはまずいよ。何でもいいから会話をしないと」
「だけど、今までも会話とかなかったですよ。お互いにそれで気持ちが通じていましたからね」
というと、
「気持ちって変わってくるものだよ。お互いに分かり合っているつもりでいる方が、そのことに気付きにくいものかも知れないな」
と腕組みをしながら考え込んでいるマスターを見ていると、次第に不安になってくる。今まで相手の気持ちに疑いを持ったこともなく、お互いに気持ちが分かり合っているつもりでいただけに青天の霹靂とはこのことだ。
美恵子が暗く、冷たくなった時のイメージは、なぜか妖艶な感じを受けた。
「この期に及んで、今さら何を言っているんだ」
と言われるかも知れないが、美恵子の後ろに男の影は感じない。幸一自身もそうだが、美恵子も幸一から見ていると実に分かりやすいタイプの女性である。
だが、それだけに分かっていたことが少しでも分からなくなると不安が大きくなるのだ。
その時の美恵子に妖艶さを感じていたのは確かである。感じてはいけないという気持ちが強く、自分の中で打ち消してさえいた。それは離婚になった時、思い出すのが辛いという自衛本能にも似たものがあったからに違いない。
その自衛本能がすべてを狂わせたのだろう。
「私たち夫婦は喧嘩なんてしたことないんですよ」
というのは自慢でも何でもない。お互いに分かり合っているという気持ちが自衛本能を打ち消していただけである。
――本当の気持ちを分かってくれる女性――
美恵子はそうだったかも知れないが、幸一は美恵子にとってどんな男性だったのだろうか。疑問が湧きあがってくる。
――家庭に仕事を持ち込まないことがモットーだ――
と思っていた幸一、なるべく美恵子の前で仕事の話をしなかった。だが、自分の中だけで抑えられるようなストレスではなかったのだろう。知らず知らずのうちに深刻な顔をしていたりしたはずだ。
夫婦喧嘩をしないのと同じ理屈ではないだろうか。自衛本能が湧き上がり、ストレスを発散させていた。それに気付かない美恵子ではあるまい。
「あなたとは話し合っても無駄、何を言っても一緒よ」
と説得に行った時に言われた。
ストレスの溜まった人間に何を言っても火に油、それを美恵子は言っているのかも知れない。
馴染みの喫茶店のマスターと話したことがあった。
「どんなに気持ちが通じ合っていても、そこに言葉がなければ意思の疎通なんてうまくいくわけがないよ。特に夫婦なんて他人なんだからね。そのことに気付かないと、結婚生活なんて長くは続かないよ」
作品名:短編集38(過去作品) 作家名:森本晃次