短編集38(過去作品)
マスターの歳はいくつくらいだろう。
「俺も若い頃にはいろいろあったからな」
よくよくのことがあったのだろう。若い頃に結婚したと言っていたので、浮気の一つや二つは脛に傷程度かも知れない。修羅場もあったことだろう。
「すべてを分かっていたような気持ちになっていましたからね」
というと、
「なかなかそうも行かないよ。一緒にいる時間が長ければ長いほど、時間を短く感じて、不安になったりするものだからね」
実際にまだ離婚という二文字が自分に迫ってきているという危機感を持つ前のことだった。どちらかというと鈍感でノンビリ屋と言われる方なので、まわりにやきもきされるタイプだった。
結婚というのを甘く見ていたのだろうか。一番気になるところである。結婚してから家庭を大切にしたいという思いから、まわりとの付き合いも悪くなった。結婚していればそれも仕方のないことだが、どこまで家庭を大切にしていたかと聞かれれば疑問符が立つ。
小説を書くことで時間があっという間に過ぎるとはいえ、ずっと続けるには神経を使う。確かに疾風のごとく流れていく時間を敏感に感じることもないのだが、思ったよりも疲労をともなう。
――何事も自然が一番――
と日頃から思っているつもりだったが、こうやって病院のベッドで一人になって考えてみると、かなりの無理をしていたように思う。結構楽な人生だったように思っていたが、それも気の持ちようで自分が楽だと思っていただけで、人から見ればまた違っているかも知れない。
病院のベッドは普段の自分を見つめなおすにはいい時間である。
最初こそ小夜子のことだけが頭の中にあった。自分のことすら小夜子中心に考えていたが、その結果として自分のことも考えるようになった。会ったことも見たこともない女性に対してそこまで感じるなど馬鹿げていることだ。それが平気でできるのだから、ネットとの出会いは新鮮なものだったに違いない。
入院したことを美恵子に知らせたということを看護婦が教えてくれた。途端に美恵子のイメージが浮かんでくる。
死ぬほど退屈なところだと思っていた病院のベッドだが、次第に落ち着いてくる気持ちに気付くとまんざらでもなくなっていた。頭の中で美恵子の存在が大きくなる。ネットができないことであれだけ気になっていた小夜子のことが頭の中から消えかかっている。実に不思議な感覚である。
健康診断で血液検査の際に、血を抜かれている時の感覚に似ていた。最初に感じた痛みが次第に身体の中の余計な力を抜いていく。思わず身体が軽くなってくる感覚である。快感にまでは至らないが、若干の心地よさとでも言うべきだろう。
そんな時に感じるのは妖艶な女性の雰囲気ではない。すでに妖艶な雰囲気をイメージしてしまった小夜子への気持ちはそこにはない。もし一度でも会ったことのある女性であるならば、あどけなさを想像した時のイメージがよみがえってくるのだろうが、呼び起こそうにもすでに意識の中には妖艶さしか残っていない。
幸一は、妖艶さを含んだ小夜子を思い浮かべた時の自分が分からなくなってきていた。
自分のことをすべて分かってくれると思っていたのはネットというものの持つ魔力に違いない。
――小夜子の中に美恵子を見た――
これは紛れもない事実だ。
病院のベッドの上で小説が一作品出来上がった。
『自分のすべてを分かってくれる女性』
というタイトルをつけた。
言わずと知れた美恵子のことだが、主人公を小夜子に見立てて書いた。ネットの中でイメージした小夜子である。かなり妖艶な女性に仕上がっていることだろう。
あくまでも小説、想像の中の小夜子が自分の願望どおりに動いてくれる。ただ妖艶な雰囲気の時の小夜子はあくまでも想像だった。
――この作品は公開しないでおこう――
本当に自分のことをすべて分かってくれる女性なんているはずはない。病院のベッドの上で表を見ていると、木の枝にしがみついている少なくなった葉っぱを揺らす風がそう呟いているように思えて仕方がない。
――やはり自分にとって、小夜子という女性は架空なんだ――
目を瞑って葉っぱの揺れを感じていた。
表の通路からこの部屋に向ってくる二人の足音、一人は看護婦さんだが、もう一人、聞き覚えのある足音。だいぶよくなったとはいえ心細さが残る中、その足音がまるで昨日のことのように思い出せる。
足音が誰だか分かった時、公開しないでおこうと思った作品をその人にだけは見てもらいたいと感じた。
すべて自分の中にあるわだかまりが解けたと思った今、何もかもをやり直せると、幸一は確信したのだった……。
( 完 )
作品名:短編集38(過去作品) 作家名:森本晃次