短編集38(過去作品)
いきなり忘れることを考えるなどおかしなものだが、どうもそんなことはなさそうだ。一度似ている人を諦めているだけに、二度は嫌だと思うに違いない。それが有田の性格であり、それは有田自身にとって、どちらかというと長所だと思えるところでもあった。すぐに諦めてしまう性格は学生時代までで十分で、
――これからは、あまり諦めずに行こう――
と考えている矢先だったので、少し複雑な気分でもある。
そのせいか、心の中で少しイライラしてきそうな予感があった。鬱状態に陥る時に分かるのと何となく似ているところがある。
好きな女性に好きだと言えるのは勇気である。しかし、相手がいる女性に好きだと告白するのは相手を迷わせるだけでなく、自己満足を得たいだけだと自分の中で考えてしまうことにも繋がる。もし駄目でも、告白したという事実だけで、勝手に自分で満足してしまうことがいいか悪いかは定かではないが、そのことに気付くと、自己嫌悪に陥ってしまうだろう。
由美さんの視線を見ていると、真田を見つめている視線よりも有田自身に向けられた視線の方が熱く感じられる。もちろん気のせいなのだろうが、どうしてそんな気になってしまうのだろう。
――やはり以前、自分が好きになった女性に由美さんが似ているのだ――
顔をハッキリと思い出せないだけに、由美さんの視線が気になるのだ。
初恋だったり、それまでに一番好きだった女性が自分の好みそのものである。これは有田に限ったことではないだろうが、特に女性に興味を持つのが遅かった有田は、すでに自分の好みの女性というのがある程度確立された上で女性を好きになったはずだ。
逆にそれだけウブだったはずだ。
異性への興味はそのまま肉体の反応を呼び起こす。素直な気持ちの表れが、身体の反応となって表れる。
――おかしいんじゃないだろうか――
と真剣に考えたこともあったが、思春期の身体の反応を誰にも相談できずに悩んでいたこともあった。友達の間では、下ネタとして話されていることだったのだろうが、そういう話には耳を傾けなかった。見透かされているようで恥ずかしいという思いもあったが、認めたくないという純情な部分もあったのだ。
そんな時に好きになった女性、初恋ではなかっただろうが、有田の心の中に一番残った人の顔が、記憶としてシルエットでしか浮かんでこない。由美さんに似ているとはいえ、じっと由美さんを見つめていても、その顔を思い出すことはできない。苛立ちは募るばかりだ。
――気が散りやすい性格が災いしているのかな――
ここまでは分かっている。特に集中して覚えたいと思っていることが却ってプレッシャーとなってしまうことに気がついた。
真田がいろいろ話しているのを、黙って由美さんは聞いている。その時の視線が気になって、有田も結局最後まで真田が何を言いたいか分からなかった。
気が散ってしまっていたに違いない。そんな時に感じたのは、
――何か自分の中で堂々巡りをしているような気がする――
ということだった。
特に最近物忘れの激しさが気になってきたが、これは今に始まったことではない。だがそれが気になり始めたということは、イライラが募り始めたことで、真剣に自分を見つめなおそうとしているからではないだろうか。
イライラはすべて感情的になることを示している。物忘れが激しいと、人からは信頼性を失い、その責任はすべて自分にあることを自覚する。
落ち込み始めると半端ではない。鬱状態への入り口が分かるというのも、落ち込み始めると悪い方にしか考えられず、あり地獄のように足元をすくわれたまま、引きずり込まれるのを何の抵抗もできず受け入れるしかない。
一つのことに集中していると、他のことが疎かになるのは自分の短所である。しかし、それをそのまま治そうと考えることはない。もしそのまま治そうとすると、
――一つのことにすら集中することができなくなってしまうのではないか――
という危惧が出てくるからだ。
もちろん最悪の考え方だろう。いつも最悪を考えてしまうのも彼の癖なのだが、それだけ慎重になっているということなのだ。あながち悪いことだといって頭ごなしに否定してはいけない。
――長所と短所は紙一重――
と言われるが、それは背中合わせの状態で、まるで鏡の逆の理論のように思える。
鏡は目の前にあるものを忠実に写すが、その逆ということになると、すぐそばにあるのに、そのことに気付かない。大袈裟だが地球を一周して同じ場所に戻って来た時に初めて気付くようなもので、一番遠いものだと思っていることは意外と一番近くにあるものなのかも知れない。それに気付かないのは、地球が丸いという発想ができないからだ。
一つだけでも発想を転換すれば、まったく逆の世界が見えてくる。それが鬱状態の時の自分だったりする。同じものを見ているつもりでも、まったく見えてくるものが違っていたりする。だからこそ、鬱状態に入り込む時が分かるというものだろう。
紙一重というよりも、裏返しなのだ。それが地球は丸いものだという発想から、大袈裟なたとえ話に結びついてくるのだ。
真田は彼女との結婚を反対されていたらしい。最初から緊張していたので、いつもにくらべて少し顔色が土色に近かった。
「お前らしくもない。信じた道を行けばいいのさ」
と答えてあげると、
「そうだな。俺らしくもないな。きっと誰かに背中を押してほしかっただけなんだな」
と納得して顔色も元に戻って、血の気が見えるようになってきた。
これも学生時代同様なのだが、真田という男、有田に相談する時には、すでに自分の心は決まっていて、あとは背中を押してほしいだけのことが多かった。
「お前も変わってないな」
と苦笑いを浮かべると、
「お前もな」
と本当に嬉しそうな真田の表情が浮かんでいた。その時に由美さんの顔を見ると、彼女の顔もそれまでにないほど、生き生きした顔をしていた。
人の話を聞くことで一歩立ち止まった真田、有田に相談してきたことは、同じ感性を持ったもの同士にしか分からない感覚がそうさせたのだろう。有田もそこで一歩立ち止まってみた。
――やっと思い出した――
その顔を見ていると、学生時代に好きだった女性の顔がハッキリと思い浮かんでくる。名前は靖子、
「あなたといると息苦しくなるの。重荷になるって言った方がいいかもね」
「あなたのような人にはハッキリと言わなければ分からないでしょうね」
などと一番きついことを言われた相手である。付き合った期間の短さよりも、実際はもっと長かったような錯覚を感じる不思議な女性だった。
――もう一度会いたい――
そして、
――今だったら――
そう感じた有田は、真田の家を後にして帰宅すると、そのまま連絡を取ってみた。
お互いに懐かしさが講じてか、あの頃のきつい雰囲気は電話からでは想像できない。いつの間にか、どちらからともなく会うことを前提に話をしていて数日後に会うことでお互いの気持ちが一致した。
――学生時代にここまで、阿吽の呼吸はなかった――
と思えるほどだった。
「全然変わってないわね」
作品名:短編集38(過去作品) 作家名:森本晃次