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短編集38(過去作品)

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 辻本は今朝の夢を思い出していた。もう一人の自分がものすごい形相で襲ってきたという夢を他の人は見たというが、今朝の夢のように冷静にただ見つめられているのとどちらが恐ろしいだろう。確かに夢から覚めてくるにしたがって、この場所であったことに最後は安心感を感じたが、ものすごい形相の相手であれば、その思いはさらに強いかも知れない。夢だったと悟ったことが安堵に変わるまで、それほど時間が掛からないに違いない。
 線香の匂いがさらに立ち込めている。それはお香の匂いも混じっているようで、一種異様な雰囲気だ。
「そういえば、先ほどテレビでこちらの宿の紹介があったようなんですが」
「ああ、あれは、ローカルな放送局が製作しているものなんですが、時々全国放送でも扱ってもらっているんです。この宿もまだ繁盛している頃は、結構放送してもらっていたって聞きましたよ」
「最近はしてなかったんですか?」
「私がここに入った頃だから、三年前ですね」
「昨日言っていた、私と会ったことがあるっていうのは、その時の放送をちょうどしていた時ではないですか?」
「そうかも知れませんが、覚えていないですね」
「その時の私に似た人は、もう一度来ると言いました?」
「いえ、あの方は言われなかったように思うんですよ。あまり覚えていないですね」
 また線香の匂いが鼻を突く。自分の話に持っていこうとすると、どうして線香の匂いが気になるのだろう?
 朝食を済ませて、仲居さんが部屋を去ると、顔を洗うのに洗面台に立った。鏡に写る自分の顔を見ていると、テレビで見た顔が別人であるように思えてきたのだ。
 というよりも、今鏡に写っている自分の顔は、今まで鏡を見て知っている自分の顔と少し違うような気がしてくる。それも不思議だった。
――これは、夢で見た冷静な目で見ている自分の顔ではないか――
 夢から覚めた瞬間だったら、これほど落ち着いて見ていられないだろう。恐ろしさから顔面蒼白になっているような気がするが、それでも、鏡には冷静沈着で無表情の自分しか写っていないように思える。
――鏡がすべて真実を写し出すというのは、思い込みかも知れない――
 と感じていた。
 鏡を今までマジマジと見たことがなかったが、軽い気持ちで見ながら、鏡の向こうから見ている自分が、本当に自分なのかという疑問は常々感じていたことのように思えてならない。仲居さんが三年前の記憶として覚えている顔に自信がないのは、鏡に写った自分の顔と、先ほどのテレビに写っていた似ている人物の顔が似ているんだと考えれば考えるほど、別人のように思えてくるからに違いない。
 ここからは辻本の想像だが、一番辻褄が合っているのではないだろうか。
――すべてを悟ったような気がする。だがそれにしても、信じがたいことだが――
 と感じていた。
――ここに来ると芸術家としての自分に会えたような気がする――
 と感じた。それは、一度は封印した自分である。
 ここの部屋に泊まると、皆自分が出てくる夢を見るらしい。
 本当は、自分の顔を鏡で見た時の冷静な顔だったのだが、同じ表情で話をしているのが分かっているので、それを話すことに恐ろしさを感じる。しかし、一人で抱え込んでいるにはあまりにも気持ち悪く、しかも、仲居さんが過去にも同じような人がいたのを思い出し話したのだろう。
 そしてまた来ることを宣言したのは、きっともう一人の自分を探しに来ようと思っているからに違いない。
 ここからがあまりにも突飛な発想なのだが、もう一度やってくる時に感じる線香やお香の匂い、そして以前に来た時の記憶がかすかにあるのだが、まるで別人になってしまったかのように感じてしまう。まるで霊を慰めているようである。
 そう、それは自分の霊……。芸術家になれなかった自分の霊……。
 世の中には自分に似た人が三人はいるという。本当にそうだろうか? ひょっとして、それは似た人ではなく、自分自身で過去に打ち消した自分の霊なのかも知れない……。

                (  完  )


作品名:短編集38(過去作品) 作家名:森本晃次