短編集38(過去作品)
では、夢の後半に出てきた人物。絶対にありえないという思いがあるからか、その人との夢にはストーリーなど存在しない。ただ、じっと佇んでいて、こちらを見ているだけ、何も語らず、無表情だったのだ。
無表情以外の表情を想像することができない。何とその人物とは辻本自身だったのだ。自分自身が夢の中に出てきて、冷静にこちらを見つめている。夢を見ている自分もまるでかなしばりに遭ったように身動きすらできない。ひょっとして夢に出てきた無表情の自分も同じようにかなしばりに遭っているのかも知れない。
鏡の向こう側の世界、夢の世界と繋がっているのではないだろうか。そんな気分にさせられる夢だった。目が覚めて背中に汗をジットリと掻いていて、目が覚める瞬間に叫び声をあげたようにも思う。
眠ってしまう時に感じたイビキを思い出した。目が覚める時に感じた叫び声も同じなのかも知れない。自分の叫び声で、夢の世界から解放されたと考えれば、現実に引き戻す自分に何か魔力のようなものがあると感じるのも不思議のないことだろう。
目が覚めてそこが自分の部屋であったとすれば、もっと安心したかも知れない。ゆとりを持つことができると思っていた宿だったが、唯一違うとすれば、それは怖い夢を見た時だということを今さらながら思い知らされた。
――怖いという感覚が、襲ってくるもの以外でもあるなんて――
今まで想像していなかったわけではないが、実際に冷静な目で見つめられる恐ろしさ、しかもそれが自分であることの恐ろしさは、夢とはいえ、表現するのが難しいくらいの恐怖に駆られる。
徐々に目が覚めてくるにしたがって、冷静さを取り戻してくると、今度は家でないことが安心感を与えてくれた。馴染みの部屋で見ている夢であれば、目が覚めて忘れていくのが夢だとはいえ、今度は夢に出てきた自分と夢の中の部屋とが違和感なく頭に残ってしまう。そして、夢を見ている自分が客観的に表から見ている自分になってしまって、結局いつまでも夢の世界を彷徨っている感覚が抜けないだろう。そういう意味では、目が覚めて自分の部屋でなかったことが、結局は安心感に繋がるのだ。
だが、気持ち悪い夢を見たことには違いない。下着を着替え、トイレに行って落ち着くと、縁側の籐椅子に腰掛けた。まだ少し汗で気持ち悪い。露天風呂に明かりがついているのが見えるが、
――そういえば、露天風呂はずっとやっているって言っていたな――
眠りを覚ます意味でも、冷静さを取り戻したい意味でも、露天風呂は恰好である。浴衣の上に一枚羽織って、部屋を後にした。さすがに深夜になってくると、少し寒さが出てきたのか、露天風呂の湯気も、漆黒の闇に向って白い煙をたなびかせている。
少し、もやが掛かっているのか、湿気を帯びた空気を感じながら歩いていると、静寂の中で、下駄の鳴る音だけが響いていた。湿気を帯びているせいか、綺麗な音ではなく、篭ったような音が聞こえている。山に囲まれたところにある温泉なので、音がこだまして少し遅れて聞こえてくるようにも感じる。
湿気を帯びた空気というのは、少しセメントのような臭いを感じるものだ。雨が降り出す前の湿気を帯びた空気が同じ臭いを感じさせる。埃を吸った地面から、アスファルトに溜まった熱によって蒸発する時の臭いかも知れない。その時もそんな臭いがした。
しかし、露天風呂に近づくにつれて、今度は最初に宿についた時に感じた線香のような臭いをまた感じていた。しかも感じたのは一瞬で、その臭いのおかげで、目が一瞬にして覚めたのではないかと思えるほどだった。
露天風呂で汗を流して部屋に帰る頃には、すでに東の空が白々と見え始めていた。
――もう朝なんだ――
さっきまでの夢見心地から一転し、白くなった山際を見つめながら部屋に帰ると、怖い夢を見て目が覚めた部屋とは少し違った趣きを部屋に感じていた。
――これがさっきと同じ部屋なのか――
何やら不思議な感覚があった。
しばらくテレビをつけて見ていたが、田舎の放送なので、郷土の美しさを強調する内容の番組が作られている。
ちょうど、この宿の宣伝を計画した番組をやっていて、女将さんがブラウン管に向って話をしている。
――やはりブラウン管を通してでも美しい人は美しいんだな――
と感じていたが、その後ろで箒を持って掃除をしている仲居さんの姿も映っている。
ちょうどお客さんが来たのだろうか。仲居さんがカバンを持って、中に案内している姿が映っている。その頃には辻本の意識は女将さんよりも、むしろ後ろで客の応対をしている仲居さんに向けられていた。
――おや――
その客の顔を見た時である。一瞬だったが、どこかで見たことのある顔だということに気がついた。
――親父かな――
と、最初は直感したが、よくよく思い出してみると父親ではない。
――自分じゃないか――
もしさっき、あんな夢を見ていなければ、父親だと思って疑わなかっただろう。だが、ついさっきの夢である。まだ鮮明に冷静にじっとこちらを見ていたあの顔は脳裏に残っていて、当分忘れることなどできないだろう。
――それにしても仲居さんは似たような客が今日来たというのに、どうして何も言わなかったのだろう――
という疑問が次第に辻本の中で大きくなっていった。ブラウン管に映っている仲居さんは、紛れもなくさっき部屋に案内してくれた人である。それは間違いのないことだ。
朝食を運んでくれた仲居さんが、
「この旅館には、面白いお客が多くてね」
と話し始めた。頷きながら辻本は聞いている。
「一度来られたお客さんで、またもう一度来ることになると思うと言い残して帰って行かれる人が多いんですよ。どうも話を聞いていると、この部屋で怖い夢を見たらしいんですね。怖い夢を見てどうしてまたここに来たいのかというのはよく分からないんですが、皆一様にまた来てみたいと言われるんです」
嫌な予感がして聞いてみた。
「怖い夢というと?」
「どうやらもう一人の自分が現われて、この部屋で襲ってくるらしいんです。それもものすごい形相でね。でも夢から覚めると徐々に夢だったことに気付いて、恐ろしさは消えていくようなんですよ。きっと、この部屋の雰囲気が怖い夢を見た気持ちを癒してくれるんだと皆さんおっしゃてました」
「だから、また来てみたいということなんですね?」
「そのようです。だから、私どもは余計に一度来られたお客さんのお顔は、なるべく覚えておくようにしているんです」
「それで、何人か来られたんですか?」
「それがおかしいんです。確かにその人だと思うんですが、またお越しくださってありがとうございますとお礼を言うと、皆さん初めて来られたというんですよ。そのお顔を見ている限り、冗談でおっしゃっているようには見えないので、実に不思議なんですよね」
「それは不思議ですね」
作品名:短編集38(過去作品) 作家名:森本晃次