短編集38(過去作品)
「お前が選んだんだから」
という一言だった。一言だけにその言葉の重たさを感じるのだが、付き合った女性とあまり長続きしなかったことに対しても、
「また彼女が違うのか?」
という程度で、それ以上のことは言わなかった。だが表情は叱咤しているというより、哀れさを感じさせる表情だった。何とも哀愁が漂った視線に父親から見下ろされている気分になったのは、少し癪に触った。
その時の表情がしばらく頭にあったが、大学を卒業する頃には忘れていただろう。しかしそれを思い出したのは死を迎えた時だった。
いよいよ駄目だということで親戚縁者を集めるように医者に言われ、取るものも取り合えずに、実家に戻ってきた。その足で病院に駆けつけたが、辻本の顔を見るなり最初に見せた表情が、その時の哀愁に満ちた顔だった。
――どうしていきなりその顔を――
と思わず後ずさりしたくなる心境に追い込まれたが、後から思えばその時の父はすでに死を覚悟していたように思えてならない。
――哀愁に満ちた距離を感じる表情――
それはまさしく父がずっと辻本に対して感じていた気持ちの表れではないだろうか。辻本はどうしても歩み寄れない父親を感じていた。それは父親から見た哀れみの表情に距離があることを無意識に感じていたからに他ならない。そのことを父の死の直前に知るというのも皮肉なことだ。
辻本には、もう父親が長くないこと、そしてそれを本人が自覚していることを、ベッドで横になっている父の顔を見た瞬間に悟っていた。そして、父が長くないということを知らされたのは、その後医者に親戚が呼び出されて告知されたことでハッキリしたのだ。
驚きというのは、父の死に対してではなく、父の顔を見た瞬間にすべてを悟ったような気がした自分に対してである。
――父は、まるでこれからの僕の行く末を何もかも知っているのかも知れない――
と感じると恐ろしくなった。
人間、死を目の前にすると、見えなかったものが見えてくるという話を聞いたことがある。特に気になる人の行く末というものが見えてくるのだと言われれば、一番もっともなように思えてくる。
父が死んだのはそれから二日後のことだった。
「苦しむことなく逝けたことがお父さんにとって一番幸せだったのかも知れないわ」
と堪えても流れ出る涙を拭きながら、母が話していた。そうでもしなければ、まともに話もできなかったに違いない。
確かに父は苦しむこともなくこの世を去った。最後の顔は安らかで、まるで寝ているんじゃないかと思えるほどの表情に、却って目を覚ますことがないということを信じられないものにしているようで、哀愁を感じる。
今度は辻本が父親を見下ろす番だった。
「ずっと見下ろされている方が気が楽だったよ」
葬儀の時のお別れで、思わずそんな言葉を漏らしながら、父の顔を見つめた。まったく表情を変えることなく冷たくなっている父は、すでに父ではない。ただ、心の中には永遠に見下ろしている父がいることに違いなく、あまり悲しくない気持ちはそのあたりにあると勝手に納得していた。
父親のことなど思い出したこともないのにどうしたことだろう? 出張とはいえ、温泉に来たことで旅行気分を味わっているからかも知れない。そういえば、父親の楽しそうな顔を思い出そうとすると浮かんでくるのは、小学生の頃に家族旅行で見た時の顔だった。旅行というのは、子供の頃でも大人になってからでも楽しい気分にさせられる。子供の頃のような単純な喜びではないだろうが、普段の自分を忘れることができるという意味では素直に喜ぶことができるはずである。
温泉に浸かり、お酒を呑みながらおいしい料理に舌鼓を打っていると、これ以上ささやかな幸福はないことを実感する。本当にささやかでその時だけの儚いものなのだろうが、それだけに時間の貴重さが分かってくる。気持ちに余裕を持つことが時間を有意義に使うことだということに気付くと、旅行の意義はそれだけでもあるというものだ。
その日、結構夜更かしをするつもりだったが、アルコールが入っているためかウトウトし始めた。それでも縁側の籐椅子に座り、先ほど浸かった露天風呂の方向を見つめていると旅行の醍醐味を感じるのだった。
――そろそろ寝るか――
布団に横になると、これ以上ないというくらいの気持ちよさを感じ、久しぶりの熟睡を予感させた。
最近は気になる仕事が多かったためか、忙しさもあってなかなか熟睡できないでいた。眠っていても何かが気になり、仕事のストレスを睡眠にまで残すという一番嫌なパターンを繰り返す自分が嫌だった。
特に食欲が落ちていて、何を食べてもあまりおいしいと感じなかったこともあり、そのためコンビニで軽い食事を買ってきて済ますだけという生活が続いていた。わびしい食生活である。
その点、出張で味わうことのできた旅行気分、実にいいタイミングでのリフレッシュである。
――おいしいものを食べられる幸せ――
これに勝るものはない。人間の中にある欲というのは、食べることから始まるのだということを今さらながらに再認識していた。
満腹になれば、睡眠も心地よく迎えられるはずである。
案の定、横になれば睡魔はすぐに襲ってきた。持ってきた文庫本を開いて三ページも読んだだろうか。本を読むと眠くなるのは、家にいても旅先でも同じことである。
本を読む時は集中したいという思いから、テレビなどの雑音を気にしないようにしてから読み始める。電車の音や車の音のように、どうしても避けられない音に関しては、それほど神経質ではないところが、きっと都合よくできている証拠なのだろう。
目を開けていられなくなるくらいになって眠るのが一番気持ちいい。その日も、本を枕元に置いて、電気を消すと、表からのかすかな明かりが差し込んでくるだけで、後は虫の声が聞こえるだけだ。久しぶりに落ち着いた気分になれた。
眠りに就くのが分かる時がある。気がつけばイビキを掻いて眠りに就いていたのに一瞬我に返ったように起きるのだ。その日もすぐに目が覚めた気がした。イビキを感じたのだ。
だが、次の瞬間には眠っていて、そこから先は完全に夢の中だった。
夢の中の登場人物は身近な人が多い。だが、その日の夢には身近な人ではあるが、今まで夢に出てきたことのない人が現れた。もうこの世の人ではないその人は、辻本の父親であった。
夢に時間があるとすれば、父親が出てきたのは、夢の前半だっただろう。だが、後から思い出すと最初の一瞬だったように思うのだから、後半はそれだけインパクトが強かったに違いない。
夢というのは、目が覚める寸前に見るものだというが、本当だろうか。父親が夢に出てくること自体辻本にはショックなくらいインパクトが強いのに、さらにもっと強いインパクトをそれ以降の夢が見せてくれた。
夢の登場人物が喋った記憶はない。目が覚めてしまって現実に引き戻されて忘れてしまっているのか、それとも、夢の中では喋れないという意識があるのか、それでも夢にはストーリーがある。セリフなくしてのストーリーとは一体なんだろう。想像力とその人物に対する思い込みではないだろうか。
作品名:短編集38(過去作品) 作家名:森本晃次