短編集38(過去作品)
そう言いながら縁側にある籐椅子に腰掛けて表の景色を見た。
夜でほとんど薄暗いが、それでも、どこかに続いているであろう道を照らしている街灯が綺麗に並んでついている。これも以前に見たことがあるようで、その時と同じ気持ちになっている気がして仕方がない。
「これはどこに続いているんだい?」
記憶の中では、どこに続いているか分かっているつもりだったが、それを確かめたくてわざと聞いてみた。
「露天風呂ですよ。お客さんも後で行かれてみればいいですよ」
――やはり思ったとおりだ――
想像したとおりの露天風呂、記憶が次第によみがえってくると言うべきか、それとも、記憶の時間に自分の感覚が遡ってきているようにも思えた。
「お客さん、以前にもここに来られたことがあるんですか?」
こちらの気持ちを察するかのような質問に思わずドキッとしてしまったが、
「いえ、それがあるようなないような不思議な感じなんですよ。初めて訪れたはずなんですが、どこもかしこもに懐かしさを感じるんですよね。こんな不思議なことってあるんですかね」
言葉を選んで話したつもりだったが、思ったより興奮して話している自分にビックリしてしまった。
以前にも来たことがあると思ったのは、夢で見たからかも知れない。だが、夢に見るとしても、夢が潜在意識の見せるものだとするならば、夢に見るだけの根拠がどこかにあるはずである。では、やはり以前にも来たことが記憶の奥にあるのだろうか。
「お客さんを以前にも見たような気がするんですよ。ここに泊まりに来られたことがあるんじゃないかと思って聞いてみたんですよ。私はここに勤めてまだ三年ほどなんですが、勤め初めてまだ間もない頃にお客さんとお会いしているような気がしてなりません」
ということは、三年前くらいに自分に似た客がここを訪れているのは間違いないのだろう。
――三年前と言えば、営業に慣れ始めていた一番大切な時期ではなかったか――
一日が長く感じたり短く感じたり、その時々で変わっていった。だが仕事に集中していた時期であったことには違いなく、他のことがあまり頭に入っていない時期でもあった。
仲居さんは言葉を続ける。
「そういえばそのお方は芸術家さんではなかったでしょうか? 何やら部屋に篭って一生懸命に何かを書いておいででしたね。小説家の先生だったようにも思えます」
芸術家に似ていると言われて悪い気はしない。辻本もかつて一度は画家を志したことのある身、心のどこかに芸術家になりたかったという思いが忘れられないのだ。
「その人は有名な人ではなかったんですね?」
有名というのがどこまでなのか定義が分からない。テレビに出ていれば有名なのか、本を一冊でも出していれば有名なのか、人それぞれで感じ方が違うことだろう。
「ええ、誰も知らないって言ってました。でも、佇まいは確かに芸術家なんです。皆言葉には出さなかったけれど、一目置いているところがありましたね」
「私にはそこまで感じない?」
「ええ、お客さんは気さくな感じで話しやすくて、私どもにとってはありがたいくらいですね。ですが、最初に玄関でお見かけした時はさすがにビックリしましたね。あまりにも似ておいでなので」
もし、自分が画家の道を選んでいたらどうだっただろう?
それなりに食えただろうか? いや、そこまでの自信はとてもない。自分に自信がなければやっていける仕事ではないことは分かっている。少なくとも自分だけでも信じることから始まるに違いない。まわりからの評価はそれからである。
昔から冒険を好まないタイプだった。親がかなり堅実なタイプの性格で、もし芸術家になりたいなどと言えば、
「何をバカなことを言っているんだ。もっと確実な道を歩まないと駄目だぞ。お前は世の中というものを知らないんだからな」
と言われるのがオチである。セリフまで見当がつくところが恐ろしい。
父親は苦労して学業に励み、そして金融関係の会社で地道に働いてきたいわゆる叩き上げ組である。キャリア組とは性格が合うわけもなく、特に冒険などもっての他だった。
父親に対して辻本は、二つの目を持っている。尊敬しているまなざしと、まともに顔を見ることのできない目である。
地道な成功を見てきたので、逆らうことはできない。しかし心の中で反発心が燻っているのも分かっていて、そこにジレンマが生じている。そのせいか父親を尊敬しながら、まともに顔を見ないのは、毛嫌いしている証拠である。
辻本が一番自分の性格で嫌なところは、父親に似ているところだ。
――堅実な道を歩むことしかできない自分の性格は遺伝によって培われたものに違いない――
と考えるようになってからというもの、営業職でも冒険ができないでいた。今の営業に冒険はいらず、どちらかというと堅実な性格の方が望まれていることは辻本にとってラッキーだった。
そんな辻本に芸術家を目指すなどできようはずもない。
しかし彼は堅実な反面、自惚れるほど自分に自信を持つ性格でもある。
「自信過剰で何が悪い。自信がないのに、あるような顔をしている方が、よほど罪が深いんじゃないか?」
と常々友達に漏らしていた。
鏡を見るようになったのは大学生になってからで、それまでは自分の顔が嫌いだったこともあって、あまり鏡を見ることはなかった。しかし、自信を持つことで鏡を見ると、
――まんざらでもないな――
と見つめる自分の表情に自信があることを実感する。
――これだけの表情ができるんだから、少々のことではめげることもないな――
と自分に言い聞かせていた。これは辻本独自の性格で、堅実さとのギャップが、二重人格性を見せているように感じさせる。
三年前にその父が他界した。
最初はビックリしたが、意外と悲しみはそれほどなかった。肉親の死をいうものに直面したのはその時が初めてだった。悲しみがこみ上げてこないことに憤りを感じながら、さっぱりとした気分の自分にも気付く。
元々、営業職として就職したので、転勤は付き物、就職と同時に家を出ることになったが、元々一人暮らしをしてみたいという願望があったので、それほど一人は苦にならなかった。
だが、やはり仕事が終わって、誰もいない真っ暗で冷たい部屋というのは、寂しいものだ。人肌が恋しいと言えば少し淫靡であるが、真面目にそう感じていた。学生時代には、付き合った彼女が何人かいたので、そんな感覚に陥ったことはなかった。
もちろん、男女の関係になり、普通に付き合っていたと思う。何が普通なのかと聞かれればどう答えていいのか分からないが、
――何の抵抗もなくホテルに入り、部屋の明かりをつける前に相手の身体を抱きしめる。その瞬間が一番好きだった――
とでも言えばいいのだろうか。
――気持ちの高ぶり、相手をいとおしいと思う気持ちの最高潮を知っている関係――
そこに愛情を感じていたに違いない。
厳格な父だったが、大学に入ればそれほど厳しくなくなっていた。大人として認めてくれるようになったのだと思って喜びもした。だから彼女との付き合いに関しても、オープンにしていても何ら問題はなかった。相手に関して一切何も言わない父が少し気持ち悪いくらいだったが、
作品名:短編集38(過去作品) 作家名:森本晃次