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記憶の中の墓地

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――お母さんは出て行ったんだ――
 ということしか頭に浮かんでこなかった。
 しかし、考えれば考えるほど、母親という写真に写っている女性の性格を想像することはできなかった。
「お母さん……」
 正則は、急に神妙な気分になり、父親の前ではあったが、写真を見つめながら、今まで感じたことのない感情に包まれていた。
――なんだ、この感情は?
 涙腺が緩んできて、瞼に熱いものが込み上げてくるのが分かった。
――このままいけば泣いてしまうかも知れない――
 と感じたが、涙が流れることはなかった。
 なぜなら目の前に父親がいたからだ。もし、目の前に誰もいなければ涙を流したかも知れないが、
――意地でも泣くものか――
 という意識がその時ハッキリと自分の中にあったのだ。
 それは父親に対しての自分のプライドだったのか、それともライバル心のような意識だったのか、ずっと今まで母親のことを何も話そうとせず、まったく気にしていなかった父親を目の前にして、たった今聞かされただけの自分が涙腺を熱くしてもいいのだろうかという思いがあったのだ。
 だが、逆に父親と違う感情を、惜しげもなく表すというのも一つの考えだった。これまでずっと抑えてきた思いを、目の前で一瞬にして瓦解するような態度を息子に取られることで父親のプライドがガタガタになるかも知れなかった。
 それは、今まで母親のことを自分に何も語ろうとしなかった父親に対しての応酬だと言えるかも知れない。しかし、その時の正則には、そこまでしようという意識はなかったのだ。
 そこまで考えてくると、今まで分からなかった、いや、分かろうとしなかった父親の気持ちが今なら分かるのではないかと感じられるようになった。
――何を根拠に――
 と感じたが、とにかく理屈ではなかった。
 何とか涙を抑えてはいたが、その後、自分がどうすればいいのか分からなかった。
――一刻も早く、この場から立ち去りたい――
 という思いが一番強かったが、それにはどうすればいいのか、すぐには思いつかなかった。
 さっき、
「ありがとう」
 という言葉が思わず口から出たと思ったが、本当はそうではなかった。
 一刻も早く立ち去りたいという思いを叶えるにはどうすればいいかと思った時、しばし考えていると、急に言葉が浮かんできた。それが、
「ありがとう」
 だったのだ。
 だから、この言葉には感謝の気持ちは欠片もなかった。ただ、他の人が反射的に口にする言葉も、本当に心から口にしているのかどうか、怪しいものだ。
 正則には、他人が発する言葉のほとんどは信じられるものではない。事実を口にしているのかどうかが肝心なことであって、感情から口にしている言葉は、基本的には頭から信じることはできないと思っている。
――これも父親と一緒にいるから、こんな思いを抱くようになったんだろうな――
 と感じていた。
 正則は、母親の写真を手に、父親に口だけの礼を言い、すぐにその場から立ち去った。
 部屋に戻って、ベッドに仰向けに雪崩れこむと、そのまま写真を天井にかざすように見上げた。
「これがお母さん」
 腕に抱かれているのが自分なんだと言われても、ピンとくるものではない。赤ん坊の顔はベビー服に包まれて見ることができない。
「この子供、本当に俺なのか?」
 父親が簡単にこの写真をくれたことを思うと、普段の父親の行動からは考えられない態度に、疑念がいくつも湧いてくる気がした。
 さっきまで一緒にいたのでぴんと来なかったが、一人になっていろいろ考えてみると、いくつか発想が浮かんでくるかも知れない。
 しかも、その一つ一つにそれなりの説得力があるのだが、決定的なものがないだけに、いくつか浮かんだ発想の中に事実は含まれているかも知れない。
 しかし、それがどれなのかを決定できるだけの力が自分にあるかどうか疑問だった。
 まったく違うことを事実として認識してしまうと、
「取り返しのつかない発想をしてしまったのかも知れない」
 と感じることになるだろう。
 それだけ正則の発想は、時として天才的な発想をすることがあるのだが、まだそのことを正則は自覚していなかった。その能力を知っている人も、まわりには誰もいない。もちろん、父親に分かるはずもないだろう。
 そんな父親が死んだのは、あっけなかった。
 病気だということを知らなかったし、どうして言ってくれなかったのか、それが悔しかった。しかし、母親の写真をくれたことと、少しでも話をしてくれたのは、自分の死期が分かっていたからだと思うと、むなしくもなってきた。その思いは、
「そこに一体どんな意味があるというんだ」
 という思いに駆られるからである。
 いまさらという思いが強かったが、実際にはいまさらではなかったのだ。
――何も知らないのは自分だけ――
 という思いが一番強く、これからいろいろなことを知っていくはずの自分が今どこまで知っているのかということを考えると、思わず立ち止まっている自分を感じるようになっていた。
 母親のことはもちろん、父親のことも何も知らない。一緒に住んでいたのに何も知らないといことがこれほど悲しいことだとは思ってもいなかったのだ。
 もっとも一緒にいる時は、顔を合わせるのも嫌だった。別に文句を言われるわけではなかったのだが、同じ空間にいるというだけで、自分のいる場所を制限されているような気がした。
――部屋の中に見えない壁のような結界が存在している――
 そう思っていた。
 ただ、その壁は厚いものではなく、固定したものでもない。あくまでも概念なので、境界線がハッキリしているわけではない。父親がその結界の存在を意識しているかどうかまでは分からなかったが、存在を分かっていることだけは感じていた。結界を感じているのに意識していないということは、そこに遠慮が発生し、父親が息子に対して遠慮を感じていることは分かっていた。
――やめてくれよ――
 遠慮だけがせっかく広がっている結界を通り抜ける力のような気がして、遠慮を感じるたびに父親に対してどんな態度を取っていいのか分からずに、次第に自分の居場所がなくなってくるのを感じていた。
 正則は家に女性を感じたことは一度もなかったはずだった。朝起きて、自分は学校、父親は仕事に出掛けてからは、昼間誰もいない部屋。毎日ほぼ同じ時間に家を出る親子だったが、一緒に出掛けるというわけではない。
 しかし、最初に家を出るのは父親の方で、最後に戸締りを確認して出かけるのは正則の方だった。
 正則は学校が終わってから、部活に参加しているわけではないので、まっすぐに家に帰ってくる。絵を描きに行くにも一度家に帰ってから、支度して出かけた。父親は早くても午後八時よりも前に帰ってきたことはない。だから、施錠してから自分が最初に部屋を開けるまで、間違いなく誰もいない部屋なのだ。
 それなのに、時々部屋の配置が変わっているのではないかと感じることがあった。
 思わず、
「おや?」
 と声に出してしまう自分がいたが、変化を感じるようになったのは、絵を描くようになってからであった。
「やっぱり、絵を描いているとちょっとした変化に気が付くようになるんだろうか?」
作品名:記憶の中の墓地 作家名:森本晃次