記憶の中の墓地
本当は、平等に扱ってくれないことへの恨みや、贔屓される人に対しての妬みを感じていながら、自分が黙っていることで平静を装って、自分が必要以上の負い目を感じることがないという思いを抱いたからだ。
そんなことは分かっている。だからこそ、余計に自分の殻に閉じこもっていた。境内でお参りした時も、
「少しでも」
という謙虚なお祈りになってしまった。
しかし、謙虚な気持ちというのは、それ以上波風を立てないという思いが含まれている。余計なことをすることで、今よりも事態を悪くしてしまうことを嫌う。それは蔑まれている人の捻くれた感情の歪みであり、決して表に向けられるものではなかった。
そんな感情を思い出しながら、石段を昇っていくと、やっと昇り切れるという思いがしてきて、気が付けば、鳥居を抜けていた。
「昇り切ったという意識はなかったのにな」
と感じたが、昇り切ってしまうと、さっきまでの疲れは消えていた。そのかわり、息切れを感じていて、疲れよりも息切れから、すぐに立ち上がることができないでいたのだ。
座り込んでいる状態から境内を見ると、以前に感じた左右対称の建物が見えてきた。賽銭箱の前まで続く石畳が異常に長く感じられたのは一瞬だったが、立ち上がってみると、確かに前に来た時よりも境内までの距離を長く感じた。
さすがに今日は以前のように絵を描いている人はいなかった。その分、境内に広さを感じ、しばし、そのまま見つめていたいという気分になった。
金縛りに遭っているわけではなかったはずなのに、そのままじっと見つめていると、ある瞬間、ふっと身体が軽くなった。
――やはり金縛りに遭っていたのかな?
と思ったが、正面を見ていたはずの正則は急に背中に視線を感じ、思わず踵を返して、今昇ってきた方に振り返ってみた。
鳥居がまるでキャンバスの枠のように、街の光景が見えてきた。
海が思ったよりも近くに見え、その光景は、見慣れたものだったのだ。
――あれ?
この光景は、前に住んでいた街の光景ではないか。思わず目を疑った正則は、腕で目をこすってみた。
「夢じゃない」
夢を見ているはずなどないと分かっているのにどうして、
「夢じゃないんだ?」
と、簡単に夢のせいにしてしまうのか、不思議な光景を見た時、いつも正則は感じていた。
考えてみれば、いつも感じていたということは、それだけ何度も不思議な光景を目の当たりにしてきたということになる。
ただ、それは定期的に感じたことではなく、ある一定の期間、何度も不思議な光景を見た時期があったというだけで、その一定の期間というのも、今思い返してみれば、あっという間のことだったように思えている。
「少しでいいので、今よりもマシな生活ができますように」
と思ったのは、その頃だったのではないだろうか。
不思議な感覚を味わっていた時期、
「何でもできるんじゃないだろうか?」
と思ったのも事実で、その時、少なからず、感覚がマヒしていたのかも知れない。
「夢と現実の狭間に、今まで見たことのない世界が存在しているとすれば、その世界を覗くことはできるのだろうか?」
と思ったことがあったが、
その時にいろいろ感じた結論として、
「一生のうちに一度だけ見ることのできるものなのかも知れない」
と思った。
そして、正則が前の悲惨な生活から抜け出し、自由を手に入れた時、再度同じ命題について考えてみたが、その結果として、
「確かに一生のうちに一度だけ見ることができるが、それを見てしまうと、自分の死期を近づけてしまったことになるのではないか」
という思いを抱いたのだ。
ということは、
「見てはいけないことなんだ」
という意識が頭にあり、この発想が昔から言われている、
「死神の発想」
に結びついてくるのではないかと思われた。
――そういえば、前に住んでいた街の神社では、裏に墓地があったな――
正則は、ふいにそのことを思い出した。
いきなり思い出したように思ったが、この神社に足を踏み入れた時から意識があったような気がしていた。それは今日というわけではなく、最初に来た時にも感じたことだった。
赤い鳥居を見た時にはすでに意識していたような気がする。そう思うと、あの時踵を返して後ろを見たのも、何か予感めいたものがあったのかも知れない。
一度境内の方に向き直り、それからもう一度踵を返した。鳥居から見える光景は、もう前の街の光景ではなかった。ただ、二度目に見るはずの光景だったはずなのに、やけに懐かしく感じるのは気のせいだろうか。ただ、これによって前に住んでいた街との縁が、本当に切れたような気がしてホッとしていた。
「俺は、これからこの街で生きていくんだ」
この間、やっと高校生になったことで、少し大人に近づいたような気になっていただけなのに、今はすでに大人の仲間入りしたくらいの気分になっている。ここから見る光景に懐かしさを感じることで、以前から住んでいたような思いは錯覚なのだろうが、錯覚でもいいから、大人の仲間入りをしたと自覚している自分は、今までの波乱万丈な人生が、これからの自分に大きな影響を与えるように思えてならなかった。
――これが自信というものか――
正則は今までとは違う孤独を感じていたが、この孤独は大人になった自分を感じているようで、頼もしく見えていた。
――何か、吹っ切れたようだ――
今までの自分は、孤独の中に鬱憤をため込んでいたことを自覚していた。
ため込んだ鬱憤はいつの間にか消えていて、鬱憤というものは、自然消滅するものだと思い込んでいた。
だが、本当にそうだったのだろうか?
自然消滅したというよりも、どこか自分の意識の外にある空間に、捨ててきたという意識を今は持っている。意識の外にある空間は、次元の違う空間で、そばにあっても見ることができないものだ。
そんな都合のいい空間が存在していていいものかと思ったが、次元の違う空間は本当に存在していて、見ることができる人とできない人の二種類いるだけなのかも知れない。
今まで見ることができなかった人でも、今回の正則のように、何かのきっかけで見ることができるようになるなるのだろうが、一度見えるようになると、ずっと以前から見えていたような錯覚を覚えることで、
――自分は、次元の違う空間を見ることができる人間なのだ――
という自覚をずっと持ち続けることになる。
途中から見えるようになる人は正則に限らず、少ないわけではない。年齢的にも様々で、誰にでもいくつかは持っている人生の分岐点が、今まで見えなかった世界の空間を見せるきっかけになるのであろう。
正則にとってのきっかけは、移り住んだ街に、以前いた街と同じような神社が存在したことだった。石段の最上段から見た光景が、前の街で見た時と、今回移り住んだ街で見る今とでは、まったく心境が違っている。その心境の違いが大きければ大きいほど、一度前の光景を見せつけられることで、記憶の奥に封印するための意識を生み、さらに新しい街で見た光景を、以前から知っていたかのように思わせるために必要な状況を生み出したのだ。