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記憶の中の墓地

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「ええ、絵を描いている時の母のイメージが普段の母から想像できる時は、絵を描いている時で、想像できなくなると、絵をやめている時なんです。言葉でいうと簡単に聞こえるかも知れませんが、結構難しいんですよ」
 正則はその話を聞いて、自分を自分が絵を描いている時のことを想像してみた。
 子供の頃から、絵を描いている自分の姿を、客観的に見ることができていた。
――絵を描くことに集中していないのだろうか?
 集中していれば、自分を客観的に見るなどできるはずはないと思っていた。
 しかし絵を描いている自分の姿を想像している時、実は結構筆の動きは好調だった。見えている視界も良好で、普段よりも遠近感、あるいはバランス感覚という絵を描く上で重要な資質を感じることができるのだ。
――「人のふり見て、我がふり直せ」ということわざがあるが、「自分のふりを見て、自分を再認識する」ということもありなんじゃないかな?
 と思うようになっていた。
 正則にとって、絵を描くことは自分を顧みることだと感じたのはその時だった。
 ちなみに、俳句を描いている時というのも、同じように自分の姿を客観的に見れるようになった。
――俳句を書くようになったから、自分を客観的に見ることができるようになったんだろうか?
 と思ったほどだが、本当はそれ以前から自分を客観的に見ることができていた。
 しかし、そのことを意識はしていなかった。見ることができていたのに、それが自分のためになることだとは到底思えなかったので、
――邪魔な意識――
 として、記憶に封印することもなく、その時に漠然と感じたこととして、スルーしていただけだった。
 そういう意味では俳句を書くようになったのは、自分の中での一つの転機だった。絵を描いているだけでは感じることのできなかった思いを感じることができたのだ。その時の正則は、
――これを感じることができるのは俺だけではなく皆できることなんだ――
 と思っていた。
 思春期の「成長の証」としての経験なのだと思っていたのだ。
 正則は自分を客観的に見ることができるようになったことで、絵の中に思わず自分が描いている姿を描こうとしてハッとしたことがあった。
 その時は、自分を客観的に見ているという意識がなかったので、自分が目の前の光景を改ざんして描いているような気になったのだ。
 ただ、なぜ自分を描こうとしたのかということを考えた時、
「自分の姿が思い浮かんだからだ」
 と、自分に言い聞かせたが、その理由までは分からなかった。
 それが俳句を書くようになってからのことなのか、それ以前からのことだったのか、ハッキリとしなかった。
 今までに何作品の絵を描いてきたことだろう。毎日のように絵を描きに出かけていたこともあったし、一日で描き上げた作品もあれば、数日かかったものもあった。数日かかったものの中には、途中で投げ出してしまおうかと思ったものもあったが、ほとんどは最後まで描き上げた。
「プロじゃないんだから、最後まで描き上げることが先決なんだ」
 と自分に言い聞かせてきた。
「麻衣子さんは、絵を描いている時、自分を意識したことってありますか?」
「私はないですね。でも、お母さんは、自分を描きそうになってビックリしたことがあるって言ってました。何を言っているのか分からなかったんですが、正則さんがまさかその話題を出してくるとは驚きです」
「僕は、絵を描くということ以前に、自分が普段見ている視線とは別に、自分を客観的に見ているもう一人の自分を感じることができるんですよ。中学生くらいの頃にそれを最初に感じたんですが、それは私に限らず、皆同じことを思っているんじゃないかと思っていたんですが、そうじゃないということに気づくまで、結構時間が掛かったような気がします」
「お母さんとお話してみたいですね」
 というと、麻衣子は笑顔を浮かべ、
「ええ、ぜひそうしてあげてください。お母さんはいつも一人で孤独にしているんですが、見ていて違和感はないんです。寂しさは感じられないので、私もずっと安心していたんですが、最近は楽しそうにしている母の顔を見てみたくなったんですよ」
「それはどうしてですか?」
「私も、いつも孤独を感じているんですが、寂しさは感じていません。笑顔をあまり見せることもないし、さっき正則さんが言われたように、私も絵を描いている時以外で、自分を客観的に感じることはあるんだけど、その時、自分が笑顔を見せたことがなくて、笑顔の自分を想像することができないんですよ。正則さんといると、私も笑顔になれそうな予感がしているので、きっとお母さんも正則さんとお話をすることで、笑顔になれそうに思うんですよ」
 正則の顔を真正面から覗き込む麻衣子の顔は、今までにないくらい輝いていた。
――この顔、懐かしい気がするな――
 最近、懐かしいと思うことが多いような気がしてきた。
 以前、読んだ本の中に、
「懐かしいと思うことが多くなったり、昔を思い出すことが多くなれば、死期が近づいたことになるんだよ」
 というセリフがあったのを思い出した。
 当たり前のことを言っているように思えたので、読んでいる時はさほど気にすることもなくスルーしたが、思い出してみると、ゾッとするセリフだったということにいまさらながら気が付いた。
「ねえ、麻衣子さんはお母さんに何か遠慮があるのかい?」
「どうしてですか?」
「いや、さっきのセリフで、『そうしてあげてください』ってあったでしょう? どこかよそよそしさを感じたものだからね」
「そんなことはないですよ。ただ、お母さんは時々、急に支えてあげなければいけないと思うほど頼りなく見えることがあるんです。さっき正則さんとお話していて、母の顔を思い出したんですが、その時の表情が、いかにも頼りなさそうに感じたので、思わずそういう表現になってしまったんだと思いますわ」
 麻衣子のその表情は、頼りない人を前に、自分がしっかりしなければいけないという意識が溢れているように見えた。
 麻衣子の母親と会う機会を得た正則は、父親から見せてもらった写真を手にしていた。その写真は父親が死んだ時、形見として正則が自分で持っていた。父親が死んでから少しの間は時々見ていたが、次第に見なくなった。おじさんの家の居心地の悪さから、写真を見る気分にもなれず、やっとその居心地の悪さから解放されると、今度は、写真を見ることが億劫になってきた。以前の息苦しい生活を思い出しそうで嫌だったからだ。
 それなのに、気が付けば母親のことを思い出していた。麻衣子の母親がどんな人なのか分からないが、それは自分が母親というものを知らないからだと思っていた。世の中にはいろいろな母親がいるが、どんな母親でも子供に対しての想いは変わらないと思いたい。しかし、それができないのは、おばさんを見ていたからだろう。
――自分の息子には過保護なくせに、他人の子供となると、露骨に嫌味なことをする。そんな人がどの面下げて、母親だなどと名乗れるというのだ――
 と思った。
作品名:記憶の中の墓地 作家名:森本晃次