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記憶の中の墓地

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 だからと言って、まったくいないというわけではない。正則のように、感じてはいるが口に出すことを躊躇っているという人もいるかも知れない。どうしても匂いを感じるというと、気持ち悪そうな目で見られるのではないかという思いがあるからだろう。
 ちょうどその日は、匂いを感じていた。
「これから雨が降るかも知れない」
 と感じたので、いつでも絵を描くのをやめられるように準備はしていた。
 と言っても、油絵のような仰々しいものではなく、スケッチブックを畳んでカバンに入れるくらいなので、それほど苦労はなかった。
 雨が降るとは予見できても、いつ頃から振り出すのかまでは予見することはできない。
――ひょっとして、匂いを感じる人が自分から言わないのは、俺と同じように、いつ振り出してくるのか予測ができないからなのかも知れないな――
 と感じていた。
 いつもは二時間程度のデッサンだが、集中していると、感じる時間は三十分ほどのものだった。集中はしているが、時間の経過に関しては敏感で、表にいることで、夕暮れの変化で、時間の経過は手に取るように分かっていた。
 ちょうど一時間半が経過した頃だっただろうか。雨の予感を感じてはいたが、実際には空に雲はほとんどなく、西日が眩しかった。
 この神社は、小高い丘の上に位置しているが、神社に上がってくるまで、少し長い石段が存在した。石段を登り切るとそこには鳥居が存在した。赤鳥居ではなく石でできた鳥居である。
 赤鳥居は、石段を登る前の最初に位置しているので、登り切ったところにあるのは石でできた鳥居だった。
 石でできた鳥居の真ん中に西日が差し掛かっている時間だった。ここまで日が沈んでくると、完全に隠れるまで三十分と少しくらいだろう。自分が絵を描くのをやめる頃から光は影に変わり始め、
「夕凪」
 と呼ばれる時間がやってくる。
 夕凪の時間帯は風がやんでいる。どれほどの時間なのか意識しているのに、なぜか夕凪が終わった時間を感じることはできない。
「気が付けば、日が沈んでいた」
 と思うからだ。
 夕凪が終わる時間というのは、間違いなく存在するはずなのに、どうして感じることができないのか。それは、
「日が沈んだのと同時に夕凪の時間が終わるからなのではないだろうか」
 と感じるからだった。
 正則は、神社で絵を描くようになる前から、夕凪というものを意識していた。しかし、神社で感じる夕凪とそれまでに感じていた夕凪とではどこかが違っていた。
「神社で感じる夕凪は、日が沈む時間に近い」
 つまりは、神社以外で感じる夕凪というのは、夕凪の時間が終わったという意識をハッキリ感じた時は、まだ日が暮れていないということを分かっていたということであろう。
 ちょうどその頃に読んでいた本に、夕凪のことを書いているものがあった。主題ではなかったのだが、小説の中のアクセントとして描かれているもので、夕凪の時間というのが、正則が神社以外で感じている時間帯とまったく同じ時間であることを示していた。
 正則が読んでいる本は、
「いつも後になって、その内容を思い出させるエピソードが書かれている」
 というものだった。
 本を読んだから、その印象が残っていて、まるで本が自分の意識を引き出しているかのように感じるのだが、逆に自分の意識が本の内容に引きずられているのかも知れないと思う。
「絵を描いているのが趣味であるなら、本を読むのは自分にとって何になるんだろう?」
 と、正則は考えていた。
「何の意識もなく、ランダムに選んでいるつもりだが、そこに意志が働いたとすれば、今度選ぶ本はどんな作品なのか楽しみだ」
 ポジティブに考えるとそういうことになるのだ。
 絵を描いている時は、あまり何も考えていない。絵というものは平衡感覚と、バランスが命だと思っているが、そこに意識が働いてしまうと、感性が失われてしまうような気がする。
 しかし、感性というものは確かに持って生まれたものも大きいのだろうが、持って生まれたものだけであれば、そこにどうしても限界が存在する。限界のないものなどありえないのだろうが、最初から限界を感じてしまうと、何をやっても面白いはずはない。
 芸術というものが感性のたまものだと考えると、
「何かを作るということに造詣が深いのは、自分の感性を信じるということに他ならない」
 と言えるのではないだろうか。
 そういう意味で、感性を成長させるために本を読んでいると考えるのは、少し発想が飛躍しすぎであろうか。
「本を読んでいる時というのは、何も考えず、本の世界に入り込むことだ」
 と言っている人もいたが、正則はそうは思わない。
 確かに本を読んでいると時間が経つのが早く感じられるが、それは集中しているからである。だが、書いたのは自分ではない。何も考えずに読んでいる方が、却っていろいろな発想を生むことができる。先のストーリーを勝手に想像して読み進んでいくと、もし違った場合、たいていの場合、ガッカリさせられる。よほど奇想天外でなければ、ガッカリすることになるが、ガッカリしない場合というのは、
「作者の思惑通り」
 ということになる。
 結局は作者という他人に操られているのだ。
 どちらにして、作者の意志に誘われるのであれば、何も考えないというのは賛成だが、本の世界に入り込むという発想には至らない。それが正則の、
「本を読む姿勢」
 なのだ。
 だから、正則は本を読んでガッカリすることはない。少し控えめな発想だが、受け身としての読書はそれでいいのだ。
 正則が今読んでいる本は、少し寂しさを感じさせる本だった。ただ内容としては厳しいものなので、同じ人であっても、読む時の心境の違いで、それまで読み進んでいた感覚と違った思いを浮かべることになるかも知れないというものだった。正則も最初はあまり意識していなかったが、読み込むうちに読むことに辛さが感じられたが、途中まで読んできたものを止めてしまうほどの心境ではなく、あまり思い入れしないようにしようと思いながら読み進んでいた。
 主人公は一人の男性で、彼は高校生の女の子と知り合うことになる。偶然知り合ったのだが、ベタな出会いのため、運命と呼ぶには白々しさが感じられた。それでもお互いに出会いに関係なく惹かれていく展開は、お互いの身の上を話し始めるところから始まった。
 不幸を感じていない人がサラッと読むにはちょうどいいかも知れない。両親を事故で亡くした女の子は施設絵育てられ、高校生になった頃には孤独に感覚がマヒしているようで、人との関わりなど、どうでもいいと思うようにいなっていた。
「オトコなんて、お金をくれればそれでいいんだ」
 と思っているようで、エンコ―など何でもないと思っていた。
 警察にも何度か検挙されていて、少年課の人からも何度も訪問を受け諭されたが、
「人に諭される程度で改心するのなら、それこそ警察なんていらないわ」
 と笑って言ってのけていた。
 悪い連中と付き合うようになり、自分が利用されているということを悟ることなく、毎日を無為に過ごした。
作品名:記憶の中の墓地 作家名:森本晃次