小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

記憶の中の墓地

INDEX|2ページ/33ページ|

次のページ前のページ
 

「もし、この時に描いていたのが油絵だったら、俺は今、絵を描こうなんて思っていなかったかも知れないな」
 と思った。
 油絵だとあまりにも、絵描きの雰囲気を感じさせ、その場にふさわしすぎて、却って意識しなかったかも知れない。デッサンというのはその場の雰囲気にふさわしくないと正則だったが、それだけ一つの背景に対してのシチュエーションは、たくさんイメージできるものではないと思っているのだろう。
 学校からの帰宅途中で描いていることもあってか、絵を描くのは夕方が多くなっている。休みの日の日中は家にいて、本を読んだりしている。実は本を読むようになったのも絵を描くようになってからのことで、休みの日の日中することがないので、本でも読もうというのがきっかけだった。
 本のジャンルにこだわりはない。流行っている本を読もうという気もなく、本屋で背表紙を見ながらタイトルが気になった作品を手に取ってみて、中を開くこともなく選ぶ、裏にあらすじも書かれているのだが、それもあまり気にしない。それでも読んだ本で失敗だったというのはあまりない。きっと読んだ後の感動も、内容によって変わることもないからだ。
「熱しやすく冷めやすい」
 という言葉もあるが、正則にはそんなことはなかった。
「当たりもなければ外れもない」
 というのが、正則の性格を一番適格に捉えた性格ではないだろうか。
 本を読むことで、
「集中することで時間を感じない」
 という感覚が生まれた。
 絵を描いていても同じ感覚に陥るが、最初は本を読むことから始まっていた。
 夕方の神社には、いつも西日が差し込んでいた。いずれ訪れる梅雨に憂いを感じながら、今描いている作品を完成させたいという思いは強かった。
 最初は狛犬をモデルに描いていた。狛犬というのはハードルが高すぎると思っていたが、西日が差し込んでくる中で、一番普段と違って見えたのが狛犬だった。石でできているので普段はグレーなのだが、西日を浴びることで、白い部分と、黒い部分が湧きたって見えたのだ。最初のグレーはどこに行ってしまったのかと思うほどの白と黒は、そのまま光と影を思わせ、角度や時間によって微妙に違ってくるはずなのに、その狛犬だけはずっと一緒に感じられる。それが、
「白と黒の魔術なのかも知れない」
 と感じた。
 そういえば、ちょうどその頃に読んだ小説の中に、白と黒をイメージさせる話があった。ミステリー小説なのだが、サスペンス調ではなく、ホラーっぽさを感じさせる雰囲気が特徴だった。
 舞台は昭和中旬の、高度成長期の話。その頃を知らない人は。学校で習ったこととして、「好景気に沸く世の中」
 だけが、印象に残っている。
 今の国家が破たんするのではないかという不安を、皆が抱いている。先の見えない時代に生きている人たちにとって、その時代がいかに輝いていたのかとしか思えない。
「眩しくて、まわりが見えない」
 というのが本音だろう。
 しかし、どの時代にでも、
「表があれば裏がある」
 というもので、当時は公害問題、貧富の格差など、今も抱えている不安が、当時からあったということである。
 本当は教科書にもそのことは載っていて、授業でも教えているはずである。しかし、羨ましい限りの印象的な時代を思うと、裏の世界は打ち消されてしまう。
 いや、打ち消されるという他力的な話ではない。自分の中で成長期というものに弊害があるということを認めたくないという思いがある。それは、ちょうど自分が成長期の真っただ中だったからだ。もっともこの感覚は、
「限りなく無意識に近い意識」
 であり、すぐに忘れてしまう意識であった。
 この意識は記憶の奥に封印もされていないだろう。もし、裏の世界を思うことがあるとすれば、高度成長の時代へのイメージを再認識した時にしかないだろう。つまりは、成長期が終わり、大人になってからでなければありえないことではないだろうか。
 だが、正則は学校で習った高度成長時代の裏の部分をずっと意識していた。習った時から感じていたことで、だからと言って憂いていたわけではない。
「歴史の一ページ」
 としての、
「認識しなければいけない出来事の一つ」
 という意識を持っていただけだ。
 もし、ここで正則が憂いのようなものを感じていたら、違った形で記憶の奥に封印されたことだろう。正則は表も裏も、平等に考えることができる人間だったのだ。
 まわりのクラスメイトからは、
「鉄仮面」
 と呼ばれていた。
 いつも表情を変えることなく、何を考えているか分からないというところがあったからだが、彼が裏と表を冷静に見つめていて、冷静さが冷めた目を生んでいると誰もが思っていたが、そうではなかった。
「俺は感情的にはならないんだ」
 といつも口にしていたが、それは、普段から彼に接している人は誰もが感じていることだった。
 しかし、感情的という言葉の意味が違っていた。
 まわりの皆は冷静さというよりも、
「他の人と同じでは嫌なんだ。天邪鬼なだけじゃないか?」
 と思っていたようだ。
 半分は正解だが、半分は違っている。違っているというよりも足りないと言った方がいい。
 確かに他の人と同じでは嫌だという思いは持っているのだが、決して天邪鬼ではない。彼は表だけを見ているわけではなく、裏の部分を見ようとすることで、光だけを受け止めることなく、影の存在も意識する。だから、顔に光を受けると、顔が光って見え、窪んだ部分に影ができているの。しかし、彼の場合は、光をまともに受けることはなく、顔が光っているわけではない。つまりは影はできていない。それでも彼は影を意識しているということは、気持ちの中で影を意識しているのだ。まわりの人のように、影を意識していないのに、勝手にできる影とは違う。そこが、彼を冷静に見せる要因なのだ。
 正則が神社で絵を描き始めてから、数か月が経った。
 季節は、まだまだ暑さを残していたが、秋めいた雰囲気もちらほらと見え始めた。
 神社のまわりの木々はまだまだ緑が残っていて、夕方になっても、まだセミの声が聞こえてきていた。さすがに真夏は夕方とはいえ、熱中症になる可能性があるので、毎日絵を描きに来ることはできなかったが、季節が次第に秋めいてくると、最初に感じるのが、風だった。
 風に秋を感じてくると、毎日のように絵を描きに来ても大丈夫だった。
「明らかに夏とは違うな」
 正則は、
「風には匂いがある」
 と思っている。
「空気にも匂いを感じるのだから、風に匂いを感じても不思議はないのではないだろうか」
 空気に匂いを序実に感じるのは、夕立の時だった。夏の間、灼熱に照らされたアスファルトには、塵や埃が散乱している。そこに雨が降ってくると、一気に水蒸気に変わった雨が塵や埃を一緒に舞い上げた時、匂いが発せられる。
 しかし、雨が降る前も匂いを感じることができる。その匂いは。
「発せられる」
 というものではなく、
「立ち込めている」
 というようなものだった。
「雨が降ってくる」
 というのを身体で感じるという人は結構いるが、匂いで感じるという人はあまり聞いたことがなかった。
作品名:記憶の中の墓地 作家名:森本晃次