記憶の中の墓地
「女性は、女性だけで一緒にいても、さほど寂しく感じることはないんだけど、男性の場合は、男性ばかりだと、哀愁を感じるというのは、私だけなのかしら?」
「そんなことはないと思う。男の俺も同じことを感じることがあるよ。特に父親を見ているとそう思うもんね。でも、ということは父親から見ると、俺もそんな風に寂しく思えるんだろうか?」
「きっとそうなんでしょうね」
ここで一息ついたので、麻衣子が話題を変えた。
「校庭の奥から校庭全体を見渡すと、思ったよりも狭く感じるものよね。不思議な感じがするわ」
「隅から見渡すということは全体をくまなく見ているということだから、本当なら広く見えていいような気がするのにね」
「でも、全体を見渡せるということは、逆に言えば、一つ一つは小さく見えているということよね。全体が主体で一つ一つはパーツに過ぎない。だから、全体を見ているつもりでパートを見ると、思ったよりも小さく感じる。だから、全体も狭く感じられるのかも知れないわ」
「いや、逆じゃないかな?」
「というと?」
「パーツが小さいだけに、全体を見渡すと大きく見えるのではないかということですよ。それなのに小さく見えるというのは、自分が想像しているよりも小さかったことで小さく感じるという、まるで事後判断のような感じだと言えばいいのかな?」
この考えは、デッサンをしている時に、時々感じていたことだった。
正則は自分に絵の才能があるとは思っていない。バランス感覚も遠近感も長けているわけではないのにデッサンを続けられるというのは、この感覚が備わっているからではないかと思うようになっていた。
――でも、この感覚は才能に結びついているというよりも、錯覚に近いものではないだろうか? 錯覚が趣味に結びついているというのも面白いもので、芸術に造詣を深めるというのはこういうことではないか――
と思うようになっていた。
それはまるで麻衣子が自分の母親を自由にやらせているという感覚に似ているのかも知れない。自由な発想が錯覚であっても、造詣を深めるのに役立っていれば、それでいいのではないかと思う正則だった。
「お母さんは、どんな絵を描くんですか?」
「そうですね、風景画が多いですね。私もそうなんですが、私と母親で決定的な違いがあるんです」
「どういうところですか?」
「私は、ズームして描くことが多いんです。例えば、被写体になる桜の木を見つけたとすると、私はその中で一番気になっている一輪の花を描くんですよ。でも母親は、木全体を描こうとする。実は、そこに母親のすごいところがあるような気がするんです」
「どういうことですか?」
「私は、気になる花を見つけるとすぐに描き始めるんですよ。見つけるまでに少し時間は掛かるけど、描き始めると早いですよね。でもお母さんは全体を描こうとしているから、なかなか描き始めることをしないんです」
「焦点をどこに置いていいのか分からない?」
「そうだと思います。木全体が主体なんだけど、その背景をどこから描くかというのが、母親にとっての一番難しいところなんですよ。もっとも、私もそれが分かっているから、全体の絵を描かないんですけどね」
と言って笑った。
「あまり背景を広げすぎると、どこからどこまでが自分の絵なのか分からなくなりそうですよね。少しでも広げていくだけで、まったく違った主題が出来上がってしまいそうな気がしてきました」
正則は、自分がスケッチブックのどこに焦点を当てるかが苦手だった。バランス感覚と遠近感、まさしくそこに行き着く問題だからだ。
「お母さんの絵を最初に見た時、私はドキッとしました。主題になっている場面と背景とがまったく違った世界のように見えたからなんですよ。それが油絵だったら色がついているからまだ分かるんですけど、デッサンでモノクロですからね。よくそれで別世界を想像できたと自分でも思うくらいですよ」
「僕も確かに全体を描くのは苦手なんです。理由はあなたと同じで、バランス感覚と遠近感が掴めないからなんですが、改めて話を聞かされると、何かきするものがありますね」
正則はこの間境内で見た女性の絵を思い出した。夕日に照らされたであろう境内と、その横半分は暈かしの掛かった絵だった。それを幻想的だと思ったが、考えてみれば、バランス感覚と遠近感を感じさせない絵だったと言えなくもない。そういう意味で夕日というのは幻想的であると同時に、ごまかしにも使えるようで、改めて夕日の幻想的な雰囲気を想像させられた。
正則は麻衣子の話を思い出しながら、その絵を思い出していた。
「お母さんは、幻想的な絵を描くような人なんですか?」
「幻想的というと?」
「例えば夕日を逆光から見たような光景を描いたような感じですね」
少し想像していたようだが、考えが纏まったのか、
「いいえ、そんな感じはないと思います。見た目もそうなんですが、真面目な人なので、忠実に描くことを常としているみたいですよ」
「そうなんですね」
正則は、あの時の女性の言葉を思い出した。
――確か、省略するところは省略するというような話をしていたような気がしたけどな――
何を省略するというのか、見えない部分をぼかして、幻想的に描いているだけだった。しかし、その芸術性はハッキリ言って、自分にはないもので、尊敬に値するものでもあった。麻衣子のいう母親のように、杓子定規に目の前に見えるものを忠実に描いているだけではあのような幻想的で芸術性に富んだ作品を描くことは永遠にできないのではないかと思えた。
――永遠にできない?
正則も、どちらかというと杓子定規なところがあった。
まわりの絵を描いている人を見ていても、中には省略して描いている人もいる。人によっては、改ざんと思えるほど、ないものまで描いている人もいる。デッサンとしてありえないと思うほどだった。
そんな連中を正則は軽蔑していた。
――芸術を志すものとしては情けない――
と感じていて、許せないとまで思っていたほどだ。
正則は、その思いをこの間の境内で少し変えられたような気がしていた。
――何かが変わった――
とは思ったが、何が変わったのか分からなかった。
確かに、
「省略するところは省略する」
ということは目で見て分かっていたが、実際に言葉で聞いたのは初めてだった。
他の人から言われたのであれば、
――何を言っているんだ――
と、最初から相手にしなかっただろうが、その女性から言われた時は、説得力を感じた。それは自分を納得させられるかも知れないと思ったほどで、完全に納得させられないにも関わらず、麻衣子と話すまで忘れていた。
麻衣子がそれを思い出させてくれたわけだが、話を聞いているうちに、
――その時の女性が、麻衣子の母親ではないか?
という思いに駆られたのも事実で、次第にその信憑性は高くなってくる。
しかも、いずれ近いうちにその母親と会うことになるだろうという予感が自分の中にあり、これも信憑性の高いものであった。
それには、もう少し正則の中で頭を整理する必要があるのと、麻衣子のことをもっとよく知りたいという思いとが交錯した。