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記憶の中の墓地

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 記憶の中から出てきた彼女の顔が、正面から正則を見つめたことで、金縛りに遭ってしまったのだった。
 正則は、彼女が引っ越していった時のことを思い出してみた。
「俺の知らない間に引っ越していったような気がしていたけど、彼女は最後に話にきてくれたような気がする」
 と思った。
 その時、何を話したのか覚えていないが、引っ越しの理由については一切何も言っていなかったようだ。正則に対しての気持ちも一切話していなかった。ただ、別れを目の前にして、言葉少なく、その場に立ち尽くしていたように思えた。
「さようなら」
 彼女のその一言に対して、正則は名にも言わず、ただ俯いていた。彼女の顔を見ることができなかったのだ。
 それから少しの間、彼女がどんな顔をしていたのか忘れてしまっていた。
――こんなことなら、最後くらい、顔を真正面から見つめてみたかった――
 と感じた。
 せっかく彼女が正則を正面から見つめてくれていたのに、正則は、その顔を凝視できなかった。
 金縛りに遭ってしまうことを恐れたのか、それとも、これ以上彼女への想いをハッキリさせてしまうと、最後は自分が辛くなると思ったからなのか、結果的に彼女の顔を凝視することができなかったことで、彼女への想いは中途半端なまま正則の心の中に残ってしまい、記憶の奥に封印されてしまったのだろう。
 それなのに、正則は彼女の顔を時々思い出していた。しかも、思い出したとしても、それが彼女であるということはほとんどなかった。
「誰だったっけ?」
 彼女への想いはしっかりと残っているのに顔と一致しない。それがいいことなのか悪いことなのか、すぐに分からない正則だった。
 正則は、誰かを助けたという意識はないのに、ヒーローになったという記憶があった。
 戦隊ヒーローものの主人公になったという妄想は、本当に妄想だったのだろうか。
 彼女の視線を正面から浴びて、照れくささからまともに見返すことはできなかったが、それは自分を助けてくれた相手からそんな視線を感じたからだという意識だけではなかった。本当に、
「彼女のことを助けたのは自分なんだ」
 と感じていた。
 人を助けるなど、自分がヒーローでもなければありえない。普通の人間としての自分は臆病で、誰かから苛められることはあっても、人を助けるなど、おこがましい考えだとしか思っていない。
 正則は、引っ越していった女の子のことをウワサしているおばさんの話を聞かされたことがあった。
――あんなおばさんの言うことなんか、しょせん、まともなことではない――
 と思っていたが、今思い出してみると、
――まんざらでもなかったか?
 と感じるようになっていた。
「あそこの家庭、逃げるようにして引っ越して行ったわね」
「ええ、そうね。でも、引っ越すまでしなければいけないのかしら?」
「親のことが問題であれば、いろいろな選択肢もあるでしょうけど、問題が子供にあるとすれば、やはり引っ越すしかないんじゃない?」
「そうかも知れないわね。もし私がその立場だったらと思うと、ゾッとするわ」
「私は自分のことのように考えるのが怖くてね。勝手な噂をしているんだけど、相手の立場に立って考えたくないという思いが、余計な発想を抱かせるのかも知れないわね」
 子供心に話の内容は難しかったのだが、
「自分のことのように考えられない」
 という言葉を聞いた時、ゾッとするのを感じた。
――これは聞かなかったことにしないといけないだ――
 と感じた。
 その時、街のほとんどの人は知っていたらしいのだが、誰もが引っ越して行った家族の話題をすることはなかった。まるで最初からいなかったかのように存在を消そうとするのは、子供にとっての想像を絶するものだったのかも知れない。
 正則は、その時彼女の表情が、
――この俺なら助けてくれる――
 という思いがあったのだと、今となっては確信めいたものに感じられた。
「俺なら、本当に彼女を助けられたのだろうか?」
 と思ったが、次第に無責任な噂をしている人たちが憎らしく感じられた。
――どうせ何も知らないくせに――
 と言いたかったのだろう。
 おばさんのことが嫌いになったのは、その頃からだった。元々虫が好かなかった人だったが、ハッキリと感じたのはこの時だった。しかし、本当はおばさんを嫌いになっただけではなく、他の大人も嫌いになった。おばさんと話を合わせているのか、話に盛り上がっている他のおばさん、それを見ていながら誰も何も言わない大人たち。
「黙って傍観するのも同罪だ」
 と、自分のことを棚に上げてそう思ったが、子供には大人に逆らう権利はないという意識を植え付けられていたことで、子供には関係ないと思った。そう思うように仕向けたのは大人たちで、そんな大人たちの思惑通りに動かされている自分が、情けなくも悔かった。
――大人になんかなりたくない――
 大人全員がそうだとは思わないが、少なくとも自分のまわりにいた大人たちは、ろくでもない人たちばかりだった。それを思うと、限りなく全員に近い大人が、自分の敵に思えてきた。
「どうして今頃、あの時の夢を見るんだろう?」
 正則は最近自分のことを嫌になりかかっていた。
 この街に引っ越してきたことで、少しはましになってきたが、前の街にいた時の最後の頃は、自己嫌悪に打ちひしがれそうになっていた。
「何をどう考えていいのか分からない」
 その状態は鬱状態に似ていた。
 しかし、鬱状態との決定的な違いは、鬱状態のように、躁状態から入り込んだわけではないということだった。しかも鬱状態のように、
「そのうちに鬱状態から抜けてくれる」
 という思いが浮かんでこなかった。
 まったく見えない出口、自分がどこにいるか分からない状態、少しでも動けば奈落の底に叩き落されるような気持ち。気が狂いそうだった。
 しかし、それでも何とかもったのは、奈落の底を意識した時間が一瞬だったということだ。定期的には襲ってくるが、ずっと続く気も狂いそうなっ状況ではない。それだけが救いだったと言えるだろう。
 そんな時、この街への引っ越しの話が出たのは、天の助けだと思った。実際にこの街に引っ越してきてからは、それまでの気が狂いそうな状況がウソのようになくなっていた。
 しかし不思議なことに、今度は鬱状態が襲ってきた。これも原因は不明である。躁鬱症に入ると、定期的に躁鬱を繰り返すことになるが、どちらが先なのか、ハッキリとしていない。今回は鬱状態が最初のようだった。
 この鬱状態はいつものことのようだ。
「そのうちに抜け出せる」
 と、鬱状態に入った時から、すでに出口は見えている。
 出口からは一筋の白い閃光が見えている。まるで昔のブラウン管のテレビが消えた時の瞬間のようだが、正則にそんなことは分からない。しかし、どこか懐かしさを感じたが、気のせいだと思いそのままスルーした。
 鬱状態に陥ったのは、正則が神社に行った次の日だった。
 前の日、まったく鬱に突入する意識はなかった。朝起きたら、いきなり鬱状態だった。どうして鬱状態だと分かったのかというと、目が覚めて見えた天井が、やたらとハッキリと見えたからだ。
作品名:記憶の中の墓地 作家名:森本晃次