記憶の中の墓地
もう少し成長していれば、力の暴力よりも言葉の暴力の方がきついのかも知れないが、まだまだ子供の正則には、力の暴力こそが「苛め」であり、それをいかに食い止めるかということに全神経を集中させていた。したがって、言葉の暴力を意識する余裕など、まったくなかったのである。
しかし、果たしてそうだったのだろうか?
正則は子供心に、言葉の暴力も何とかしなければいけないと思っていたはずだ。だが、そこは彼の本能が解決してくれた。
――何を言われても右から左、他人事だと思えばいいんだ――
という思いが本能を動かした。
そのため、彼が孤独が似合うと感じるようになったきっかけになったのは、この時だったと思われる。
ただ孤独というものが「逃げ」に繋がるのではないかという思いは正則の中にはなかった。
いや、正確には、
――意識しないようにしていたのは、本能のなせる業だった――
のである。
「逃げ」という言葉が正則の中で付きまとっていたのは自分でも分かっていた。しかし、それは同じ時期の力の暴力に対して感じていた、
――いかに被害を最小限に食い止めるか――
ということに対してであり、その裏にある本能が解決してくれた、「言葉の暴力」に対してのものだとは思いもしなかった。
本能というのは、あくまでも本人に意識させるものではなく、絶えず心の裏に潜んでいるもので、それはまるで、止めると死んでしまう呼吸のようなものではないだろうか。
呼吸が潜在意識の中の本能であるとすれば、一般意識の中にある本能が「逃げ」と言えると思うようになっていた。
そんな正則は、まわりは皆敵だらけで、四面楚歌の状態だった。しかし、ある時期から、正則には味方ができた。それは一人の女の子だったが、彼女は正則が言葉の暴力を受けた時だけ、反論してくれた。
彼女は、クラスの中でもひときわ身体が大きく、小学生の低学年でありながら、胸も膨らみ始めていた。発育の早さが群を抜いていたことで、いじめっ子たちはおろか、クラスの全員が一目置いていた。何しろ、彼女の成長ぶりは半端ではなく、先生すら一目置いていたのではないかと思えるほどだった。
正則は、絶えず逃げの態勢を取っていたにも関わらず、変なプライドだけは高かった。
「放っておいてくれよ」
せっかく助けてくれた彼女に対し、本当なら言ってはならないことを口にしたりした。それが暴言であることを正則は分かっていた。分かっていて口にしたのは、自分の中にある変なプライドが邪魔をしたからだった。
さすがにそこまで言われると、
「せっかく助けてあげたのに」
と、二度と助けてくれなくなるのは必至だった。
――これでいいんだ――
正則は、逃げの態勢を取っているものに自分の本能を感じていたから、そう思っていた。変なプライドが高いと思っていたのは、正則とまわりの人たちだった。だが、正則の中に逃げの態勢を取っているが、それがプライドからではないということに気づいていた人がいた。それが、彼女だったのだ。
さすがに、本能から来ているものだというところまでは分からなかっただろう。しかし、彼女から見ていると、正則が逃げていること、そして、このままではいけないということを真剣に考えていた人が彼女だということ。この二つは前半の人生の正則にとって、一番の転換期だったのかも知れない。
次第に正則への苛めもなくなってきた。ちょうどそれと同じくらいに、彼女も親の仕事の都合で引っ越していった。
正則は思わず涙が出てきた。それは、
「もう二度と会えないかも知れない」
という思いが流させた涙で、その時正則は初めて、
「思わず泣いてしまうことってあるんだ」
と感じたのだった。
テレビを見ていて、人が泣くシーンを見た時、まだ子供だったが、
「どうして、あんなに目を真っ赤にして泣くんだろう?」
と思った。
普段苛められている時、泣くこともあったが、目を真っ赤にして泣くようなことはなかった。泣く時というのは、力の暴力に耐えられず、痛くて泣いてしまう時だったので、痛い部分は他にあった。涙は痛みを堪える時に、反射的に流したものである。
しかし、彼女がいなくなって流した無意識の涙は、目がカッと熱くなって、鼻もズルズルになっているのを感じた。
「顔をグシャグシャにして泣く」
という表現は聞いたことがあったし、テレビのドラマやアニメでもそんなシーンはあった。
「ウソっぽいよな」
と思っていたが、まさか自分がそんな感じになるなど思ってもみなかった。
引っ越していった彼女のことを、中学になって異性を意識するようになってから、
「あれが初恋だったんだ」
と感じた。
本当は異性を意識する前でも、これが初恋だったという意識はあったはずなのだが、異性を意識する感情が芽生えるまで、意識することはできない場所にあったのだ。
「記憶の奥に封印されていることは、それを思い起こすために必要な感情が芽生えなければ引き出すことはできない」
忘れてしまっていることを、一瞬でも思い出したり、
「前にも見たことがあるような気がする」
と感じさせるデジャブという現象があるが、記憶の奥の封印を解くために、ワンクッション必要だということを意識することで、デジャブなどの現象の証明にはつながらないまでも、少なくとも自分を納得させる力はあるような気がした。
小学生の頃の苛められていたということを意識することはなかったのも、
「嫌なことや都合の悪いことを封印するための記憶の奥という場所は、きっと存在しているんだ」
と思うことで、今の正則を納得させることができた。
ただ正則が子供の頃に抱えていた問題はそれだけではなかった。
「僕には、母親はいない」
という意識が無意識の中にあったことだ。
他の人には母親がいるのに、自分には母親がいないという事実を受け止めるという気持ちはなかった。母親は最初からいなかったと思う方が自然だったからである。
あの頃の自分に、
「子供は、母親から生まれる」
という意識があったかどうか分からない。学校で習うことでもなく、他の人もおそらく、いつ誰から習ったのか覚えている人は少ないのではないだろうか。ひょっとすると、母親がいないことで苛められていたのかも知れない。苛めている方も、その意識があったかどうか分からないが、母親がいないことで、何か話をしていて、正則の言動が他の人の気持ちを傷つけるものがあったとしても、その時の当事者の誰にそれが分かったというのだろう。
「あいつは生意気だ」
と言われても、本人に言われる筋合いもない。
言っている方も、何が生意気なのかを訊ねられると、答えようもない。子供の喧嘩というのは、往々にしてそんなものなのではないだろうか。
童話に、「みにくいアヒルの子」というのがあったが、親が誰であれ、子供は育つという眼で見ることのできる話であり、正則はその話に運命的なものを感じた。その話を聞いた時は、
「人は母親から生まれる」
ということを自覚していたからだった。