記憶の中の墓地
他人事という考え方が二種類あるように、世界にも夢の世界と現実の世界がある。自分の中で考えている二つの他人事、どちらかが夢の世界のことではないかと思うのは、突飛な発想であろうか。
他人事だと思うようになると、不安が少し軽減された。それは鬱状態から抜けたことで今度は躁状態にランクアップしたことの証明なのかも知れない。
「躁鬱症というのは、バイオリズムのカーブを描くように、躁状態から鬱状態を繰り返していく状態だったりするんだ」
と言っていた人がいたが、
「そうなのかも知れない」
と思った。
正則は、
――俺は躁鬱症なのかも知れない――
と自覚したとたん、躁鬱のどちらでもなくなった。
心の中に余裕は残っていたが、不安はある程度消えていた。もちろん、不安がまったく消えるとは最初から思っていなかったが、不安の正体も漠然としてだが分かるようになった気がした。
正体さえ分かれば、対処の仕方はいくらでもあった。
ただ、対処に戸惑ってしまって、そのまま鬱状態に陥ったこともあったが、躁鬱が二巡したあたりで、躁鬱から抜けていた。
最初はどうして抜けることができたのか分からなかったが、その理由を考えていれば、意外と簡単なことだった。
――意識しなければいいんだ――
気が付いたら抜けていたことが多かったことでそのことに気が付いた。
やはり必要以上な心配は、ろくなことにならないということであろう。
街にもだいぶ慣れてきて、その間に高校受験というイベントもあった。正則は無事に高校にも入学でき、お兄さんからも細やかながらお祝いもしてもらった。数日間は達成感と充実感で今までになかったように有頂天な気分になったが、一旦冷めてくると、今までの気分に戻るまでに時間は掛からなかった。それでも、不安よりも余裕の方が大きいという自覚があることで、今までの自分とはかなり違っていることに、正則は満足していた。
正則は家の近くに、前に住んでいた街にもあったような神社を見つけた。そこは前にいた街のように、小さな山の中腹に境内があるようなところで、石段の下に赤い鳥居があるのも同じだった。
正則は、何か運命のようなものを感じた。自分の境遇から、あまり運命のようなものは感じないようにしていたが、自分が探していたのと同じシチュエーションの場所が新しい環境にも存在したというのは、今までにないくらいの感動であった。
しかし、表に出すようなことはしない。実際に神社の存在を知ってからすぐに、境内に行ったわけではなかった。何度か学校の帰りに寄り道をして、ただ通りかかったように横目で赤い鳥居と見るだけで、そのまま帰宅したのだった。
もちろん、正則に興味が薄れたという感覚があるわけではない。むしろ興味は高ぶっていた。それでも上がってみなかったのは、正則の中で、
――何かを待っていた――
からである。
では、何を待っていたというのだろう?
正則が赤い鳥居を見に来る時というのは、いつも学校の帰りだった。部活などしていない正則にとって学校の帰りに来るというのは、ほとんど変わらない時間に来ていることを示していた。
正則が気にしていたのは鳥居自体ではない。鳥居から伸びる影を見ていたのだ。
通りかかって最初は、鳥居を中心に全体を見ているが、すぐに目線を下に下げ、足元から伸びる鳥居の影に注目していた。
正則が鳥居を正面から見ているわけではなく、斜め前から見ているので、伸びている影はさぞや歪な形になっていることだろう。いかにも平面を思わせる図形は、平行四辺形を想像させるものだったに違いない。
正則が鳥居をくぐって、石段を登ってみたのは、神社を見つけてから、一か月が経っていた。
いつもは五分程度鳥居、いや、鳥居から伸びる影を見ていたのだが、その日は、十分を超えても、動こうとはしなかった。
「影が動かない」
意味不明とも思える言葉を口にした正則は、そのまま一旦踵を返し、鳥居を背にしてみた。
そこから見えるのは、ここまで歩いてきた道だった。初めてその場所で振り返ってみたのだが、
「こんなに遠かったんだ」
と呟いたのは、鳥居が見えるまでに最後に曲がった角から、一直線の道が続いていたからで、
「結構、距離があるよな」
と思っていた。
目の前に見えているのに、なかなか辿り着かない思いは最初こそイライラしたものだったが、慣れてくると、木にもならなくなった。ただ、今まで一度も振り返ったことがないのを急に思い出し後ろを振り向いたのだが、自分が思っていたよりも、その直線が長かったことを後ろを振り向くことで思い知らされた。
――人生もこんなものなのかな?
と、神妙なことを考えてみた。
だいぶ慣れてきた高校生活だったが、中学生から高校生になったことで自分の中で何かが変わったとは思わない。確かに不安よりも余裕の方が大きくなったのは確かだったが、環境の違いや、受験に合格したことでの自分への自信から、精神的には少しは変わったと思う。しかし、肝心の高校生活に何か期待できるものがあるかと言えば、そんなことはなかった。ただ、今までになかった「期待」というものがあり、期待が予感に変わることを望んでいる自分がいた。
正則は、ここまで歩いてきた長い道を振り返りながら、
「曲がり角って、何だったんだろう?」
と思い浮かべていた。
――両親がいなくなった時?
もし、そうだとすれば、一直線というのはおかしい。それまでにいろいろ紆余曲折があったはずだ。
そう思った時、正則はふと感じた。
――俺がいろいろなことを他人事のように感じるようになったのっていつだったんだろう?
という思いである。
両親がいなくなった時、正則は何をどうしていいのか分からなくなり、完全に途方に暮れていた。頭の中が混乱し、それをどうにかしなければいけないと思う反面、それを冷静に見ている自分の存在に気づいた。
――あの時だったのか?
とも思ったが、それでも、おじさん夫婦に預けられる時、親戚の言い分を戦わせている場面を、偶然ではあったが目撃してしまった。
――俺は厄介者なんだ――
と、思った。
しかも、傷口に塩を塗られているような気分にもなった。本当の痛みがあったわけでもないのに、息が乱れて、
――このまま窒息するのではないか?
とまで思ったほどだった。
そんなことを他の人は誰も知らないということは、そんな状態からすぐに元に戻ったということだ。普通であれば、そんな状態になれば失神したりして、救急車で運ばれても無理もないことだろう。
正則は、別に我慢したという意識もない。もっとも、我慢しようと思ってもできるものではない。我慢できるくらいだったら、そんなパニックになるはずもないからだ。
――明らかに、あの時、自分の中にもう一人誰かがいたような気がする――
他の人が気づかなかったのは、ショックに打ちひしがれている自分とは違う自分が表に出てきて、何とかまわりへの対応をしていたのではないかと思えた。
しかし、それも「自分」なのである。
後ろを振り返ったことなどないと思っていた正則だったが、本当にそうだったのだろうか?