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記憶の中の墓地

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 と思うと、不安が形を変えていくことに気が付いた。
 変わってきたものの正体が何なのか、正則は漠然と分かってきた。
 余裕があれば、余計なことを考えてしまう。それが不安に繋がってくるのだが、前のように他人事だと思って逃げることは許されない気がしたのだ。
――許されない――
 この思いが、変わっていった不安の正体だった。
 許されないことが自分を苦しめる。すなわち、
――プレッシャー―― 
 だったのだ。
 プレッシャーは自分が自分で感じるもの、誰も助けてはくれない。自分で跳ねのけるしかないのだが、これまで育ってきた環境から、跳ねのけるだけの力のノウハウも持っていない。
――どうして、俺ばかりこんな不安に駆られなければいけないのだ?
 と感じていた。
 今までの孤独主義が招いた感覚で、
――自分が感じていることは、他の人が感じることはない――
 という今までの思いからどうしても抜けることができず、孤独の悪い部分を今になって感じていた。
 もちろん、気持ちに余裕ができても、
「孤立主義」
 に変わりはなかった。
 それが自分の殻に閉じこもることになり、今まで孤立主義のいい部分だけしか見ていなかったのに、急に悪い部分が見えてしまったことで、正則は混乱したのだ。
 正則は、鬱状態に陥った。
 元々、お兄さんは正則の生い立ちは知っていても、前の家でどんな生活をしていたのかは知らない。おじさん夫婦も自分たち中心主義のくせに、下手に世間体を気にしていて、それは肉親でも同じだった。
「俺たちは普通の家庭を営んでいる」
 とばかりに、悪い部分は徹底して封印した。
 しかし、そんな付け焼刃な対策は薄いメッキのようなもので、ちょっとでも綻びが見えると、そこから中を見通すことなど、難しいことではない。
 家庭崩壊まで行ったのだから、最初は何も知らなかった長男夫婦も、少し接しているうちにウスウス気がついてくる。それは、ぎこちなさが招いたものだった。
 正則は、誰にも何も言っていない。それでも長男夫婦が自分たちのことを看過したことはおじさん夫婦は分かっていたようだ。そういうことにはなぜか敏感になっていて、それを長所に分類していいのか、短所に分類していいのか微妙なところだった。
 おじさん夫婦は、
――どうせ、あいつが言ったんだろう――
 と、口には出さないが、出所は正則だと思っている。
 正則も何となく分かっていたが、
――もう、この人たちとは関係ないんだ――
 と思うことで、別に気にすることもなかった。
 しかも、
――放っておいても勝手に自滅する家庭など、気にする必要なんかない――
 と思っていて、ここまで面倒見てくれたことを差し引いても、自分に非はないと思っていた。
 最初の些細なところでの原因の一旦に自分が関わっているかも知れないとは思っているが、その時点では十分に修復が可能だったはずだ。それなのに、ここまで拗れてしまい修復が不可能ではないかと思えるほどになったのは、あくまでも自業自得の範疇だと思っている。
 正則は、おじさんの家庭の崩壊を冷静な目で見てきた。
 もちろん、大人の世界の微妙なところは分かるわけはないが、どのように自業自得を演出してきたのかということはある程度分かっていた。
 ただ、それはあくまでも表面的なことであり、どこまで信憑性があるかということまでは詳細まで分からない。
 今の自分が不安に見舞われているのは、おじさんの家庭が崩壊に向かっていったのに似ているような気がした。
 もっとも正則が感じている家庭の崩壊への過程は、一般的な転落への発想であり、十分に修復可能な人が堕ちていく時と似ていたりする。だから、今正則が陥っている不安というのは、ある程度の、
――取り越し苦労――
 と言えるのではないだろうか。
 そのことに気づくまで、少し時間が掛かった。しかし、気づいてしまうと、後は順応性には長けている正則なので、いくらでもポジティブな発想を持つことができた。
――もう一度、不安に思うことを他人事だと思えるようになれば、それだけ気が楽になるというものだ――
 そう考えればいいだけのことだった。
 正則は、他人事という言葉をはき違えていたと思うようになった。
 他人事というのは、表から無責任な気持ちでただ眺めていればいいと考えていた。確かにおじさんの家にいる頃の悲惨だった生活の時はそれでいいのかも知れない。
 しかし、本当の意味での他人事というのは、
――もう一人の自分を生み出すこと――
 だったのだ。
 もう一人の自分が、主人公である自分の中にいて、本当の自分は自分の身体から離れて、表から冷静な目で見つめることが他人事なのだ。
 他人というのだから、登場人物が一人では成り立たないということに気づけばそれでよかったのだ。
「でも、他人ではなく、他人事なんでしょう? だったら、無意識に表から見つめるのが他人事なんじゃないか?」
 という考えもあったが、
「いや、同じ他人事でも、どん底の時に逃げに転じるために用いる他人事と、普段感じる言い知れぬ不安から抜け出すために用いる他人事と二種類あるんだ。それを俺は鬱状態に陥った時、気が付いた。鬱状態から抜け出す時というのは、その前兆が見えるものなんだよ。光が差してくるとでもいえばいいのかな? 要するに長いトンネルから抜ける時に差し込んでくる光、それが前兆なんだよ」
 と、もう一つの心が諭している。
 この心の中の葛藤こそ、もう一人の自分の存在を証明していると言えるのではないだろうか。
 正則は今までもう一人の自分の存在を否定してきた。それはもう一人の自分が以前、夢に出てきたからである。
 夢のほとんどを覚えていることはなく、本当に夢を見ているのか疑問だったくらいだ。だが、覚えている夢もあるにはあった。そのほとんどが怖い夢だというのは皮肉なことだったが、覚えているのが怖い夢だというだけなのか、それとも怖い夢しか見ないようになっているのか分からなかった。
 しかし、最近になって、
――何か夢を見た気がするんだけど、覚えていない――
 という夢の存在を意識するようになった。しかも、
――もっと見ていたかったな――
 という意識だけが残っている。
 ということは、楽しい夢だったということの裏付けではないだろうか。
 正則は、
――楽しい夢って本当にあるんだ――
 と感じたが、それがいつのことだったか覚えていない。子供の頃だったのか、それとも中学に入ってからのことだったのか分からない。したがって、どん底の人生を歩んでいたにも関わらず夢の分岐点がいつだったのか意識できないということは、それだけ夢と現実とではまったく違う世界で繰り広げられていることだと言えるのだろう。
 確かに考えてみれば、現実というのは、自分の力ではどうにもならないことばかりだが、夢の世界は自分が創造したものなので、基本的には自分の力でどうにでもなると言えるだろう。しかし、それをどうにもできないのは、それだけ夢の世界と現実の世界とでは大きなギャップがあり、そのギャップが夢と現実のバランスを取っているのではないかと思うと説明がつくような気がする。
作品名:記憶の中の墓地 作家名:森本晃次