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記憶の中の墓地

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 母親の態度が変わってきたのは、ちょうどその頃からだった。子供たちには詳しいことは分からなかったが、急に子供たちに対しても母親は上から目線になっていた。
 その時の母親の気持ちは、
「私が何をしたっていうの?」
 という思いなのか、
「そっちがその気なら……」
 という思いなのか分からなかった。
 しかし、母親が明らかに変わったことは間違いなく、出かける時も化粧に余念がなかったり、帰ってきた時は、香水の香りがプンプンして、近づけないほどだった。
 上から目線は、父親に対してが一番強かった。母親の性格からして、自分が高圧的にしている時は強い立場に立てるが、少しでも臆してしまうと、何も言えなくなってしまう。極端ではあるが、それだけまわりに負けないようにしようという負けん気が強いようだった。
 家庭は完全に崩壊してしまった。その原因を作ったのは、正則だったのだが、正則に何ができるというのだろう。自分のことですらどうにもならない状態なのに、まわりを気にする余裕などあるはずもない。却って、そんな余裕を見せれば、当事者にとっての癇に障ることになるに違いない。
 正則はしばらく引きこもりのようになってしまった。絵を描くこともやめてしまって、ただ自分の運命を呪うだけ、
「どうして、俺を残して死んじゃったんだ」
 と言いたいくらいだったが、時間が経って落ち着いてくると、自分よりも、彼の方が可愛そうに感じられた。
 正則の場合は、親が死んでしまっているのでどうしようもないが、おじさんおばさんの場合は、生きている。何とかしようと思えば、絶対に何もできないわけではないはずなのに、子供の自分一人が頑張っても、何ができるというのか。
 下手に身内が声を掛けると意地になってしまうこともある。火に油を注いでしまっては、どうしようもないだろう。
 そんな時、正則に対して助け船があった。
 最初に正則を誰が引き取るかということで揉めた時、長男夫婦が頑なに拒んでいたが、長男夫婦の長男が、大学に合格した。
 大学は、正則たちの住んでいる街だったのだが、
「正則君と一緒に住むというのはどうだ?」
 という長男の一言があった。
 一人息子を送り出す気持ちの中で、一人暮らしに抵抗があった長男だったが、さすがに正則の厄介になっている弟夫婦に任せるわけにはいかない。
「それならば」
 ということで考えられたのが、
「正則との同居」
 だったのだ。
 弟夫婦に任せっぱなしだった正則を引き取るかわりに、一緒に息子と住まわせることで、今までの後ろめたさを解消することができる。そして、まったく知らない相手と同居するよりも、一応親戚なのだから同居させることに抵抗もない。一石二鳥というものではないかと考えた。
 弟夫婦の関係は冷え切っていたが、対外面では平静を装っていた。特に長男夫婦に対してはコンプレックスを持っていたこともあってか、余計に虚勢を張っていた。
「まあ、大学に合格されたのね。おめでとうございます。正則君と一緒に暮らすのであれば兄さん夫婦も安心ね」
 と、母親は渡りに船だと思っているくせに、なるべくそんな思いを表に出さないようにした。下手に喜びを前面に出すと、家庭の中を見透かされてしまうようで嫌だった。
 この家庭は、別にまわりから見透かされても、気にしないくらいに罪悪感や後ろめたさに対して感覚がマヒしていた。
 長男夫婦が正則を預かることに神経質なほどに断ったのは、実は息子の受験が近づいていたからだった。
 一人息子の受験なので、今までに経験のないほどのプレッシャーと、神経をすり減らすほどの気の遣い方をしなければいけないことを自覚していたからだ。
 ただでさえ大変なのに、そんな時期に「厄介なもの」を抱え込むわけにはいかない。嫌われてもいいから頑なに拒否したのは、そのためだった。
 そして、弟夫婦の家にも同じ年ころの子供がいる。必然的に二人は同じ時期に受験を迎えるだろう。
「一人に気を遣わなければいけないのなら、二人も同じこと」
 と一言で一刀両断にできるものではないが、自分たちが今直面していることを思えば、まだ時間があると思ったのだろう。
 しかし、長男夫婦は肝心なことを忘れていた。もちろん、まだ受験という事態に直面していない弟夫婦にも分かるはずはないのだが、二人とも合格すれば問題ないが、二人とも不合格だったり、どちらかが不合格だった場合にどのように対処していいのか困るということだった。
 まだ、二人とも不合格の方が、両親としてはいいのかも知れない。
 もし、自分の息子だけでも合格していれば、
――息子は大丈夫だ――
 と思うことで、何とかなるかも知れないが、正則だけが合格した場合は、屈辱感が生まれるに違いない。もし二人とも不合格ならそんなことはないかも知れないが、
――養ってやっている――
 と恩に着せられるべき相手が、自分の息子よりも頭がいいと証明されたように思い込み、自分のことのように考えるだろう。
 子供同士ではそこまではないかも知れないが、親が屈辱感を持ってしまえば、息子にも伝染するかも知れない。そうなってしまうと、修羅場も想像できてしまう。
 そういう意味でも、長男夫婦の申し出はありがたかった。
 すでに崩壊している家庭ではあったが、正則がいなくなることで、修復の可能性も残されているかも知れない。それを思うと、正則自身にとってもありがたいことだった。
 結局、長男夫婦は弟夫婦の家庭が崩壊しているなど、まったく知ることもなく、つつがなく、息子と正則の同居の手配を整えた。部屋は地理的優位で弟夫婦が探したが、段取りすべては長男夫婦に任せきりだった。
「すみません」
 と、殊勝に頭を下げて見せたおばさんだったが、本当はそんな気持ちなど、まったくなかった。殊勝な態度の出所は、後ろめたさだったのかも知れない。
――こんな感覚、マヒしていたはずなのに――
 と、おばさんは感じたことだろう。
「いえいえ、息子の段取りのついでですから」
 と、笑って答える長男夫婦。
 正則の行く末を決める時の態度とは打って変わっていた。今から思えば、完全にあの時と立場が入れ替わっていたのだ。
「元気でな」
 そう言って、今まで一緒に育ってきた彼からは言われた。
「ああ、お前もな。今までありがとう」
 正則の本音だった。
「元気でね」
 おばさんもおじさんも、一言そう言っただけだった。それ以上の言葉は出てこないのだろう。いや、こんな時でもなければ家族が集まることのない崩壊した家庭。一刻も早く、皆一人になりたかったのかも知れない。
 これから住む部屋は、今まで住んでいた家から、十キロほど離れたところだった。
「もう、行くこともないだろうな」
 と思っていたし、
「あの家庭と関わることもない」
 と、少し後ろめたさもあったが、
「これでいいんだ」
 と自分に言い聞かせ、新しい生活に胸を躍らせていた。
 二人で済む場所は、二LDKのコーポになっていて、正則が今まで住んでいた場所に比べると、思ったよりも綺麗だった。
作品名:記憶の中の墓地 作家名:森本晃次