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短編集37(過去作品)

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 気付いている人も中にはいるだろうが、ほとんどの人は気付いていない。本当に低血圧の人もいるだろう。しかし、低血圧だけで片付けられるものではないことを本人は気付いていないのだ。
 そんな人にデジャブーが多いのかも知れない。時々同じような思いを持ちながら、何かを感じていると思うと、いろいろ話を聞いてみたくなるだろう。
 朝の時間に余裕を持っていると、その日一日にも余裕を持てるというものだ。特に朝、コーヒーの香りが充満した部屋でゆっくりできる日など、匂いをずっとそのまま一日忘れないでいられるように思う。
 コーヒーの香りを充満させるまでに、部屋が暖かかくなり、ステレオからは、クラシックを流すようにしている。
 その日は「G線上のアリア」だった。落ち着いた気分で朝のひとときを過ごすことができたのだが、曲に重みも感じている。学生時代の夢を見た時など、普段聞く時とは、同じ曲でも重みを感じるのだ。
 特に「G線上のアリア」には造詣が深く、夢の中で聴いていたような気がするくらい気持ちの中に入り込んでいる。学生時代によく試験前などに聴いていたのがこの曲で、曲を聴くから思い出すのか、思い出すから曲が耳に残るのか分からない。きっとそのどちらもなのではないだろうか。
 コーヒーの香りに、ベーコンエッグの香ばしい香り、さらにトーストと来ると、食欲がない時でも、お腹が減ってくるというものだ。最近は、馴染みの喫茶店ができたので、朝はそこで済ますことが多いが、その日は自宅でゆっくりと朝の時間を使って出かけたのだった。
 いつも朝の時間をどう使ったかによって、その日一日が全然違ってくる。特に最近は目覚めが悪く、部屋で朝食を摂ることをしていなかった。
 食べれないのである。胃が荒れているのか、起きてからすぐに食べれないというのは今までにもあったが、最近は仕事も忙しく理由がハッキリしている。
 仕事に疑問を感じ始めた最近、疲れているのも事実だ。どうしてこんなに疲れるようになったかも不思議だし、ハッキリとした原因は分からない。疑問を持って仕事をしたことなどそれまでにはなかったが、立場的にもちょうど仕事に疑問を持ち始める頃ではないかということに予感はあった。
 三郎は、仕事が休みの時は必ずモーニングサービスをやっている喫茶店に寄る。最初はいろいろ行ってみたが、最近は馴染みの場所ができて、休日の午前中の行動は決まっていた。
 コーヒーがおいしい店を基本に探した。まずコーヒーの味だったからだ。候補はいくつかあったが、決め手はトーストの香りだった。香ばしい香りを嗅いでいると、コーヒーがまろやかに感じられる。しかも、そこはいつもクラシックを掛けているので、それも気に入った一つだった。
「三郎さんはクラシックが本当に好きなのね」
 店の女の子に言われて、これでもかという笑顔で、
「うん」
 と答えていた。その笑顔はまるで子供のようなあどけなさを醸し出していて、憎めない表情になっていた。
「時々、三郎君の笑顔が癒しになることがあるんだよ」
 皮肉とも取れそうだが、三郎は素直に喜んだ。これが馴染みの店でなければ社交辞令なのかも知れないが、馴染みになってから久しい店では皮肉になど聞こえるはずもない。
 三郎にとって馴染みの店を作るのは、中学生の頃からの憧れであった。馴染みの店での常連同士の会話がストーリーの中核を成している漫画が連載されていた。それを毎週見ていたのだが、その内容はほのぼのしたものや、ウンチクを傾けたものなどさまざまで、見ていると、
――自分も将来馴染みの店を持ちたい――
 と思うようになった。
 馴染みの店を持つことによって漫画の主人公のように、まわりから慕われる人間になりたいと思うことで、自分が成長していくことを望んだ。要は気の持ちようなのだが、中学生くらいの成長期には、大人に近づくためには何でも吸収しようという気になってしまう。それがいい方へと向うのも中学時代の特権ではないだろうか。
 三郎は大学時代に馴染みの喫茶店をいくつか持っていた。大学時代にはいろいろなところに顔を出している関係で、友達も多く、友達によって馴染みも違うのでいくつ持っていても、結局自分にとっての本当の馴染みの店は一軒だけなのだ。
 どこが自分にとっての馴染みか最初は分からなかったが、決め手はクラシックだった。
 同じようにおいしいコーヒーを飲ませる店が多かったので、次に考えるのは落ち着ける店である。そう考えるとクラシックの掛かった店と考えるのは、実に自然なことだった。
 それまで小学生の頃に音楽の授業でしか聴くことのなかったクラシック。流れていてもあまり意識することもなかったのは、まわりの流行に流されやすい中学、高校時代を過ごしてきたからだろう。
 大学生ともなれば流行というよりも、自分独自の世界を形成したくなるもので、他の人と同じ行動をする反面、どこか目立ったところを表したいと思うものだ。
 人と違う趣味などもそれで、クラシックを聴くことが自分の中での独自の世界だった。聴いていていろいろ想像が湧いてくる。物語を勝手に考えていることもあった。
――小説を書きたい――
 と思ったこともあった。
 物忘れの激しい三郎には向かないかも知れないが、やりたいと思ったことを大切にしたかった。自分の世界に入ってしまえば、そこからは誰にも邪魔されることなく勝手な想像が許される。誰に認めてもらおうという気もなく、ただ自己満足だけを純粋に求めた。
 どこに投稿するという気もなく、知り合いには内緒で書いていたが、知っている人がいてほしいという意味でも、馴染みの店を持つことはありがたかった。
 馴染みの店でノートを広げて書いている。原稿用紙を使って書くことは難しかった。性格的にかしこまって事に当たろうとすると、緊張からか萎縮してしまってアイデアも浮かばない。自分の世界を形成することができないのだ。
「おいしいコーヒーを飲みながら、読んでくれるような人がいればいいですね」
 マスターや、店の女の子にはそう言って原稿を見せたことがあった。
「三郎さん、これなかなか面白いですよ。ここだけで終わらせてしまうのは、もったいないんじゃないですか?」
 投稿をほのめかしているのだ。少し心が揺らいだが、
「もう少し自分の世界に入れるようになれば考えよう」
 と言葉を濁した。結局大学卒業までに投稿したのは一度だけ、結果は一次審査も通らない。
「これからよね」
「ああ、もちろんそうだよ」
 落ち込んでいるとでも思ったのか、慰めてくれる。鏡を見ると、本人が考えているより暗い顔をしているのが、実に寂しい気がしてきた。
 馴染みの店とはそんなところなのだ。自分の世界に入り込んでも、誰からも何も言われない場所、そこにはおいしいコーヒーが温もりを保ったまま待っていてくれる。自分が考えている時間を超越できる場所である。
 小説を書いていると心が洗われる。書く前は、
――発想なんてそう簡単に浮かんでくるわけもないのに――
作品名:短編集37(過去作品) 作家名:森本晃次