短編集37(過去作品)
という衝動に駆られたのも事実だった。浮気という事実は女性側には言い訳のできることではない。責められて当然のことだろう。だが、考えてみれば本当に女性側だけが悪いのだろうか。その時に付き合っていた男性に非がないとどうして言えるだろう。そう考えると、もう一度浮気をされる前の彼女に出会ってやり直してみたいと思うのも無理のないことである。
その願望が水前寺公園であったのかも知れない。それにしても、目の前から忽然と消えたのはその理由が分からないだけに気持ち悪い。
――幻だったんだ――
と思えば、それで済んだことなのかも知れないが、天草でも同じように目の前を歩いている。しかもその隣にいるのがいつも鮫島というのも納得が行かない。
――ひょっとして、悩んでいた彼女がいつも相談していたのは鮫島ではなかっただろうか――
という思いが頭を巡る。鮫島なら間違いはないだろうという思いは希望的観測に過ぎない。鮫島とて聖人君子ではない、何かがあったとしても不思議ではないだろう。疑えばきりがない、頭が混乱してきた。
鮫島はいつも一人でいる雰囲気が強かった。それだけに目の前の後ろ姿から、正面に回った時にどんな表情をしているか想像がつかない。桜井と一緒にいる時の表情を彼女との間でしているとは思えないからだ。
彼女に関しては後姿しか思い出せない。前から見た姿、それは別れた瞬間に忘れてしまったように思える。大体名前を覚えていないこと自体不思議ではないか。本当にそんな女性がいたのだろうか不思議である。
思い出せば思い出すほど、遠くに去っていくようだ。歴史の中での出来事のように思えてくる。
自分にとって見たことのある人をどこかまったく違う土地で見かけると、それからの自分が次第に遠ざかってくるように思える。それは距離というだけではなく、むしろ時間というものの感覚が強い。時間を超越し、自分の知らないはずの世界が見えてくるように思えるのだ。
――彼女を見ている時の自分は、まるで今の自分じゃなかったように思う――
控えめなところが好きだったのだが、どこか気の強いところがあった。気が強いというよりも、自分の中で絶対に譲れない何かを持っていたのは間違いない。それについて、同じ気持ちを持った時期があるようにも思うが、ついていけないと思っていた方が強かったようだ。
桜井よりも、性格的には鮫島の方が合っていたようにも思う。しかし付き合っている頃は、
――これほど気が合う二人はいないのではないか――
と思っていたはずだった。
――あの頃の自分は今の自分とは違うのだろうか――
彼女と別れてから、やたらと歴史に興味を持ち始めた。戦国時代などがその例で、城下町に興味が深いのもそのせいである。
落ち武者伝説というのが至るところに残っている。平家の落ち武者、戦国時代の落ち武者と、最高の栄華を誇ったにもかかわらず、その短命さが無常を誘う。日本人独特の考え方と言えるのではないだろうか。
旅行先で選んだところには必ず落ち武者伝説が付きまとっていた。別に落ち武者伝説を好んで選んでいるわけではなく、まったくの偶然なのだが、風景を見ただけで、
――以前にも見たことがあるような気がする――
と思うのは、そのあたりが起因しているようにも思える。
鎧の重さが身に沁みて、雨風に打たれてボロボロになっている。
最初はそんな姿を、まるで時代劇を見ているかのように想像していたが、そのうちに本当に身体にその辛さを感じられるようになってきた。
――自分は落ち武者の生まれ変わりなのだろうか――
と感じるようになると、尾道の街を見下ろす山の上からの景色がよみがえってくるのである。
最近、好きになった女性とは付き合い始めていたが、
「どこかで見たことがあるんだよ。違和感をまったく感じないんだ。だからあなたと付き合ってみたくなったんです」
と付き合い始めて、お互いに気心が知れてくるのを感じると、当時の心境を話してみた。
「ええ、実は私もなんですよ。でもね、何かかこの因縁のようなものを感じて、その因縁は悲しい結末で終わったように思えるのも事実なんですよね」
その思いは桜井にもあった。だが、さすがにそこまでのことを面と向っていうのは控えていたが、彼女の告白で自分の中に収めていようと思ったことが勘違いでないことを確信したのだ。
尾道で見かけた二人の男女の後姿、それは落ち武者だった前世の自分が現代に現われ、そしてその時に一緒に行動をともにしていた奥方である彼女の前世が一緒になって現われた瞬間だったように思う。後姿しか見えないのは、歴史のパラドックスに違いない。
尾道での光景を思い出していると、今度は天草の丘の上からの風景がダブって見えるように思う。
尾道は自分の前世に由来があると自覚していた桜井だが、天草は自分に関係ないという気がして仕方がない。
以前に付き合っていた彼女、別れを言い出してすぐに自殺をした。旅行に出たのは、そのショックを忘れようと思って出かけたのだが、旅行中は本当に忘れてしまっていた。名前すら思い出せないほど忘れていたのだが、旅行から自分の住んでいる街に帰ってくると忘れていたこと自体信じられない。
彼女は熱心なキリスト教信者だった。前世も隠れキリシタンだったに違いない。そういえば、会話の中で、絶えず隠れキリシタンを意識したようなことを話していたように思う。彼女のことは好きで好きでたまらなかったが、キリスト教信者ということがずっと引っかかっていた。別れることになった最大の理由は浮気という事実よりも、キリスト教信者だというのに浮気をしたことの事実の方が強かったのだ。
浮気があろうがなかろうが、別れていただろう。良心の呵責と、浮気という信者にあるまじき行為に耐えられなくなった彼女が自殺するのではないかと心の中で密かに感じていたかも知れない。自殺の事実を知った時に頭に浮かんだのが、落ち武者として一緒にいた女性の最後だった。
浮気の相手がキリシタンであった前世に絡んでいたことは分からないでもない。桜井と付き合ったのも、前世の因縁が絡んでいるように思えるからだ。
――付き合っている時も絶えず後ろの誰かを見つめていたように感じる――
お互いに虚空を見つめていたのかも知れない。
だが付き合っていたことは事実なのだ。忘れることのできない時期だったはずだ。
――彼女は自分の中で永遠に生き続ける――
そう感じるのも決して不自然なことではない。
彼女と鮫島の関係だが、最初はどうしても分からなかった。前世で付き合っていたといえばそれまでなのだろうが、どうもそれだけではないようだ。
――鮫島の前世が裏切ったのかな――
今の鮫島からは想像もできないが、考えてみれば今の自分を他の人が見て、落ち武者が前世だったと信じられるものではないだろう。きっと同じことに違いない。
作品名:短編集37(過去作品) 作家名:森本晃次