短編集37(過去作品)
初めて見た高いところからの銀世界。それもあたり一面というのは爽快だった。すべてのものを白い色が覆いつくす、きっと毛利家の殿様も、何百年と見てきた光景なのだと思うと、不思議な感覚に陥ってしまった。
白という色が色の原点であると思っているのは桜井だけではあるまい。カラフルな色を高速回転させると出てくるのは白だという実験をテレビで見てからというもの、桜井は色の原点を白だと思うようになった。
目の前一面の白い幕。家があるために立体感を帯びているが、そのところどころに見えている薄っすらと黒い影も印象的だ。一番立体感を感じされる色も白ではないかと感じると、ますます白という色に興味を覚えてくる。
――とにかく眩しい――
これが天守閣から見た一面に広がる光景に感じた最大の思いである。
熊本城から見下ろす市街地には、その時ほどの感動はない。しかし、さすが名城とうたわれただけのことはある。壮大な景色にまるで加藤清正になったかのような気分に浸っていた。歴史を知っているだけに、思いは戦国の世へと向うが、吹いてくる風に気持ちが落ち着いてくるのを感じる。さっきまでいた公園が小さく見える。
城跡を見ると、水前寺公園へと足を伸ばす。熊本には路面電車が走っていて、そこが大都会にはない情緒を感じさせる一つでもあるのだが、熊本城からそれほど遠くないのも嬉しいところだった。
路面電車を降りて、おみやげ屋を両側に見ながら少し歩くと、水前寺公園の入り口にぶち当たる。
中に入るとこじんまりとした公園で、庭園というと金沢の兼六園や岡山の後楽園を想像していたので、思ったより小さいのにビックリさせられた。
――これくらいの方がいいかも?
ガイドブックで見た光景が目の前に広がったが、狭いがゆえにそれ以外のところはそれほどでもない。それだけ最初に見える写真の光景が印象的なのだろう。
アベックが多いのも目を引くところだ。
今まで気にならなかっただけで、以前に旅行で見た観光地にもアベックが多かったのかも知れない。女性と分かれてすぐなだけに、
――一緒に来たかったな――
という思いが強いのもいたし方のないことだ。
アベックの後姿を見ていると、
――あれ? 見覚えのある後ろ姿だ――
と思って、しばらく目が離せなかった。女性の方には明らかに特徴があり、それが最近別れた彼女の姿であることがすぐに分かった。本当であればいつも自分の隣にいるので気付くはずもないのだが、浮気された時に見たたった一回の後姿の印象に似ているというのも皮肉なことだった。
男の方はというと、特徴はあまりなかった。しかし、今まで見たことはあまりなかったにもかかわらず、その人の後ろ姿は、じっと今まで見つめていたような気がする。それほど一緒にいるようなこともなかったのに、いつも一緒にいたような気がするその男は、そう鮫島だったのだ。
もちろん、錯覚だと思うのだが、一度そう見えてしまうと、そうとしか思えない衝動に駆られてしまった。
だが、その時は、追いかけてみる気にもならず、ちょっと違う方を見ると、いつの間にか二人の姿は消えていた。
あっという間の出来事で、あたりを見渡すがそれらしき人はいなかった。
――錯覚だったんだ――
そんなにすぐに見えなくなるところに移動したとは思えない。錯覚でなかったら幻影としか言えないだろう。
あっという間にまわってしまった水前寺公園を出ると、もうさっきの後ろ姿のことは気にならなくなっていた。
――去るものは追わず――
まさしくそんな気分だったのかも知れない。
その頃からだろうか、桜井は自分が忘れっぽいことに少しずつ気付き始めていた。
――あれはいつのことだったかな――
くらいはまだいいとして、それが頻繁に起こるようになると、今度は、昨日のことすら忘れているようになった。
――まだ若いのに、健忘症なんて――
と、気になってきたのだが、それでも、
――想像力があればいいのかな――
と楽天的に考えるようになっていた。
その日は熊本市内の繁華街下通り商店街の近くに宿を取った。熊本城からも近く、商店街の近くということで、夕食にも困らないと考えたからだ。
夜になっても、繁華街から人は減らず、平日ということもあってサラリーマンで賑やかだった。これだけの大きな商店街はあまり経験ないので、少し戸惑っていたが、歩いてくうちに慣れてきたのか、食事も近くの焼肉屋へと入った。
どちらかというと少食の桜井だったが、旅に出ると急に食欲が旺盛になる。その日も香ばしい香りに誘われて多すぎるかなと感じた注文をしたが、気がつけば全部食べていた。少し胃にもたれる気もしたが、久しぶりにおいしいものを食べたことで満足していた。
――明日は天草に回ってみようかな――
そう感じたのは食事が終わって落ち着いて店の壁を見ると天草地方の写真がパネルになって飾られていたからである。
天草五橋というと有名な橋の写真や、キリシタン墓地などの写真が飾られている。交通の便はあまりよくはないようで、熊本駅からバスで行くルートが一番正解のようだった。
――都会の熊本市内からだと、かなり田舎に感じるだろうな――
その想像は当たっていた。海岸沿いを走るバスの窓からは、果てしない海を広がっているように感じられる。あまり人も乗っていないので、のんびりした気分で海を見ながら景色を堪能していた。のんびりした気分になると得てして余計なことを考えてしまいがちだが、その時はそんなこともなかった。
普段からいろいろなことを考えている桜井は、ゆったりした気分になるのを少し怖がっているふしがある。理論詰めでいつも考えているので、考えることがなくなると、悪い方へと想像力が向かいがちなのだ。
例えば、大学生の頃などは特にそうだったのだが、大学生というと時間的にも精神的にも一番人生の中で余裕のある時期である。甘えが出てくるのもその時で、あまりにも余裕があるのが怖くなってくる。自分の中に芽生えた甘えを払拭できるほど人間ができているわけではない。
特に将来のことを考えると不安だらけだった。
「不安に思うからだよ、希望を持たないとダメだよ」
友達は簡単に言うがそうも行かない。少なくとも自分の中にある甘えを払拭できないタイプであることが分かっているだけに、このままいざ社会に出てしまって、
――本当に甘えが許されない時になっても、甘えを払拭できなければどうなるだろう――
という不安が頭の中からどうしても消えないのだ。
「お前は心配性なんだよ」
と友達に言われるが、その友達はそれほど楽天家でもない。いつも緻密な計算をしていて、思い切るところはしっかりと思い切れる判断力に長けたやつだった。そんな彼から楽天的な発言が出ると戸惑ってしまう。桜井は頭が混乱しそうになっていた。
だから、社会人になってからでも見る夢は大学時代の夢が多い。卒業間近の就職活動をしていた頃はもちろん、入学してからしばらくして気付いた自分の中にある甘えを思い出すのである。
――本当に心配性だったんだな――
作品名:短編集37(過去作品) 作家名:森本晃次