短編集37(過去作品)
風が吹けば一斉に靡くすすきの穂、しかしそこには若干の時間差があり、縄文時代を思い浮かべていたせいもあってか、その一瞬の違いが、まるで数年の違いのように感じられる。
――いったい、この光景を今までにそれだけの人が見たのだろう――
と感じる。
自分の前に見た人は、数百年前の人だったとしても、何ら不思議がないように思う。きっとその人もここで同じことを感じたに違いないと思ったからだ。
以前に見た大平原、その時は横になって見たような記憶がある。揺れているすすきの穂が自分よりもだいぶ高いところに見えている。そして、その遥か向こうに見えているはずの空が、まるで繋がっているかのように感じられた。
抜けるような青空とはまさしくその時に見た空だった。最初は繋がっているかのような錯覚を覚えていたが、じっと見つめていると、次第に果てしなく遠くに感じられた。
――空とは、こうでなくっちゃ――
と思いながら見つめたものだった。
横になって空を見上げることは今までにも何度かあった。近くに見えたり、遥か遠くに見えたりと、その時々で違っているようだった。横になって空を見る時というのは、気持ちにゆとりのある時のはずだったが、その時々で微妙に精神状態が違っていたのかも知れない。だからこそ、集中しているはずの空に対して感じ方が違っていたのだ。
横になって空を最初に見たのは小学生の頃だった。
友達からは、
「お前、何考えてるんだ。そんなところで横になって」
最初に横になったのは小学校のグラウンドだった。夕方で、学校の門が閉まろうとするその少し前、自分でもその時の心境は思い出せない。ただ、
「空が見てみたくなってね」
実は、その数日前にグランドを横切って帰ろうとしていた時のことだったが、影がやたらと長く感じられたことがあった。その時も学校の門が閉まろうとしている時間で、夕方に近い時間だった。日が西の空に傾きかけている時間なので、影が長くなっているのは当然なのだが、それにしても長すぎる。まるで大人の人の影を見ているような気がしていた。もっと言えば、
――まるで違う人の影のようだ――
と感じたくらいなのだが、まちがいなく影は自分の足元から出ていた。場所はグラウンドのど真ん中に近いところ、しばらく気になっていて、どうしたものかと考えあぐねて出した結論が、グラウンドで横になって、自分がかげと同じ場所から空を見てみようと思うことだった。
何とも貧困な発想で、それが何になるのかなど分かるはずもない。だが、その時に見た空も雲ひとつなく、西の空が少し赤みを帯びていて、青い部分との融合に見入ってしまいそうだったことだけはハッキリと覚えている。
影を長く感じたのは、今までに何度もあった。そのほとんどで、今までロクなことがなかったのだ。ただの偶然で片付けてもいいものなのかを考える時、思い出すのがグラウンドや、すすきの穂の真ん中で横になって見た空の光景である。
何とかなってきた人生、もしグラウンドやすすきの穂の真ん中で空を見上げるような気持ちがなければ、何とかなっていなかったかも知れない。そんな思いが最近頭を巡るのである。
会社の近くの公園で、今まさに影の長さを感じている。ロクでもないことが起こりそうな予感がしている。それはかなりの確率であるが、その証拠が、影に見つめられたように思うことだった。
かなしばりに遭ってしまったかのように身体が動かない。自分の影なのに、自分と同じ行動をしていないように思えてならない。影は真っ黒で色に変化があるわけではないので、普段はそこまで考えたりしないが、黒くなったその奥に見える表情は、怯えている表情ではない。こちらを冷静に見つめている目である。
今までに感じたことのないものだった。
――影のような冷静な表情になれれば、自分の人生を変えることができるかも知れない――
と感じた。
横になって見つめた空を思い出していた。空しか見えないはずの目の前に、シルエットで浮かんでいる男の顔を想像している。表情はまったく分からない。それだけ空の色が青く、眩しいものなのだ。次第に空の色が変わってくるのに、気付いていた。
風のない世界、空の色が次第にオレンジ色に変わってくる。身体に気だるさを感じる夕焼けの時間帯である。
影の支配する世界を想像している。その世界には風など存在しないのだ。ただ、太陽の影響を大いに受けている世界。太陽がなければ存在しない世界。じっと、影を生み出した自分を見つめている。
――どうして影の存在に気付かないのかな――
ずっとそのことだけを考えてびったりと本人にくっついている影。しかも影の世界は孤独である。すべては本人次第、その本人にも気付いてもらえない悲しい世界。
影が必死になって自分の存在を主張しているのだ。それができるのが夕凪の時間帯だけである。
影の世界と同じ風がまったく吹かない時間、限られた短い時間帯であるが、その時間帯だけ、影がそれぞれの主である本人に自分の存在のアピールを許された時間帯なのだ。
靖はそのことを無意識ながら分かっていたに違いない。横になって空を見ているという行動、余裕を持ちたくてそれだけでした行動が偶然にも影の世界に一歩入り込むきっかけを与えたのだ。
もちろん影の世界を悟られてはいけない。それは影の世界の掟である。孤独な影の世界での暗黙の了解ではないだろうか。動物が言葉もないのに、本能を親から受け継ぐような感覚に近いのかも知れない。
すべて無意識の元に進んできたこと。近いようで遠い影の世界、
「影法師という言葉があるよな」
「うん」
「影法師の法師って、何か坊主のような言い回しだけど、どこから来た言葉なんだろうね。影ってさ、結局、その人に一つだけのものだろう? 坊主が自分の影を見て法師って言っただけのことなのかね。それとも、誰か偉い人を影に見たのかな?」
友達が言っていたが、靖は漠然と聞いていた。影に対しての人から聞く話は、真剣に聞いてはいけないような気がしたからだ。
「そうなのかも知れないね」
とその時は適当に答えておいた。
他の考え方としては、影というものを何か不気味なものとしての総称に使っていたのかも知れない。例えば、鏡のようにまったく同じように写っていて、ただ左右対称になっているものを三種の神器として神のごとく奉られているものもあるではないか。影に関しては捕らえようがないというだけで、もっと神秘的なものに感じる。それを「法師」と表現したと考えるのは無理なことだろうか。
後から考えると、「法師」と最初に影を表現した人がどうなったのか、興味が湧いてきた。
――きっと影の世界を覗いたに違いない――
と感じたからだ。
ロクなことがなかったのも、きっと影が自分の存在を悟られないように細工をしているのかも知れない。風のない夕凪、それは影の世界を意識させる唯一の時間帯である。
夕凪を意識して生活をしている人は、一体どれだけいるのだろう? ひょっとして他にはいないかも知れない。自分だけだとすれば、影の世界を意識しているのも自分だけということになる。夕凪の魔力は影の魔力でもあるのだろう。
作品名:短編集37(過去作品) 作家名:森本晃次