短編集37(過去作品)
そのことを他の弔問客は知っているのか、誰も母の行動をいぶかしく感じている人はいなかったはずだ。一番母に対して気を遣っていた父も、同じ思いだったに違いない。
だが、葬儀が終わるまで靖の中でそれほどの悲しみはなかった。おばあちゃんには世話になったという気持ちも強いし、いなくなったなど信じられないという思いも強い。だが、葬儀の最中などは、まるで他人事に近い精神状態だった。
車が火葬場に向かい、火葬が終わるまで待たされていた時間帯になって、やっと虚しさのようなものがこみ上げてきた。その時はそれが虚しさだとは断言できないほどで、
――何だろう? こんな気持ちになったことはなかったはずだ――
まるで胸焼けのような感じで、胸を掻きむしりたくなるような心境だった。痒いわけでもない、何かを期待している時に似ていると感じたのは、かなり後になってからのことだった。
燃え落ちて、すべてが骨になる。
「人って最後は皆こうなっちゃうのね」
誰かの声が聞こえた。コンクリートで囲まれた場所なので、小さな声だったはずなのに、エコーが掛かったように響いている。それが印象的で、その話を聞いた瞬間に、
――もうおばあちゃんは戻ってこないんだ――
と、急に悲しくなってきた。
おばあちゃんの死というものにだけ感じた思いではなく、自分の人生にも当て嵌めていたことだろう。半永久的に続く社会人としての人生の終着点が見えるわけではないので、どうしても人生そのものの終着点を考える。それが今目の前にしている状況なのだ。
その日の火葬場からの帰り道、久々に夕焼けを感じた。
「この時間から事故が多くなるっていうから、運転には気をつけないとね」
親戚代表で車を出してくれたおじさんに、おばさんが横から声を掛けていた。確かに夕方に事故が多いというのは聞いていたが、それも交通量が多いから仕方がないことだと思っていた。
その日を境に、憂鬱だった精神状態がウソのように落ち着いてきた。後から思えば、葬儀の時から、
――鬱状態を抜けるような気がする――
と感じていたように思える。意識して感じないようにしていたとさえ感じるほどで、
――おばあちゃんの魂は、心の中で生き続けているんだ――
と、まるで通り一遍のような感じ方をしていたが、そう思うことで鬱状態から抜けることができたんだと思えてならない。
夕焼けを見るたびに、火葬場で焼かれるおばあちゃんが思い出された。落ち着いた気分になれるはずだった夕日で、どうしてそんな思いを抱くのか分からなかったが、火葬場で焼かれる思いを感じていても、落ち着いた気分になれる不思議な時間帯だった。
悲しみが抜けたわけではないが、少なくともまったく分からない未来のことに対して、必要以上に気を揉むことがナンセンスであることに気付き始めていたのだろう。夕焼けがそれを教えてくれたのだ。
夕焼けが見える時間帯といえば、それほど長いものではない。その日によってまちまちなのだが、五分くらいの時もあれば、二十分くらい感じることもある。翌日の天気の具合で決まってくるのかとも感じたが、あまり余計なことを考えたくなかったので、調べてみようとは思わなかった。
夕凪の時間帯に事故が多いというのは、ある日テレビを見ていて分かったことだった。スタジオ内で繰り広げられるトーク番組だった。司会者が学者を相手にさまざまな超常現象について尋ねている。元々SF小説を読むのが好きだった靖は、ブラウン管に集中していた。ほとんどは実際に本で読んだり、時々考えごとをしている中で出てくる発想だったのだが、その中で「夕凪」について語っている学者の姿が印象的だった。
まるでそれまでの話が「夕凪」に関しての話の前置きではないかと思うほど、ここぞとばかりに熱弁を奮っているように感じる。
「夕方に風が吹かない時間帯のことを知らない人が多いでしょうね。でも、それは意識していないのではなく、意識しているんだけれど、それを意識させない何者かが存在しているように思えてならないんですよ」
学者の中には超常現象が、何者かの力によるものだということを認めたくない人も多いだろう。学者の立場としては、あくまでも科学的に物事を見つめるものだ。何者かの存在は科学的根拠を真っ向から否定するものだと思っているはずだからである。だが、ブラウン管で話している学者は、他の学者に比べれば順応性に長けているのか、柔軟な発想を持っているようだ。思わず聞き入ってしまったのは、学者の話や考え方をもう少し見ていたいと感じたからに違いない。
それまでは、火葬場に向う車の中でおじさんが語っていた、
「この時間から事故が多くなるっていうから、運転には気をつけないとね」
と言っていた言葉の意味が分からないでいた。記憶の奥にあって、時々思い出していたのだが、どういう意味かということを考えたことはなかった。漠然とした意識の中で、言葉を思い出すことで、あの時の心境を思い出すことができるというだけだったのだ。
夕焼けの時間帯を意識することはあっても、夕凪を意識することはない。わざと意識していなかったようにも思えるほどで、夕方の時間帯で風がまったくない時間など存在しないとさえ思っていた。
夕凪という言葉でさえ、その時の学者の話で、あらたまって感じたほどだった。
「夕方には風が止んでしまう時間帯がある」
これだけ聞かされただけでそれ以上の意識がなかったのは、本当の夕焼けを見たことがなかったからかも知れない。
本当の夕焼けを見たと思ったのは、いつだっただろう?
大学時代に旅行が好きで、よく一人旅に出ていたものだ。
有名な観光地はもちろんのこと、現地で聞いたあまり観光化されていないところでも穴場と言えるような素晴らしい景観を探すのが一番の醍醐味だった。
――これこそが旅というものだ――
と感じるような景色を今までに何度見たことだろう。そんな中で、
――本当の夕焼け――
を見たと感じたことがあったのだ。
最初に聞いたのは夕焼けが綺麗だという話ではなかった。秋の季節だったので、山の中腹に広がる大平原が、まさに真っ白いすすきの穂で綺麗に染まっている光景が見れると聞いて出向いた時だった。
登山の恰好まではしていなかったが、なるべく軽装で重たいものは宿に置いて出かけた。山に登ることには違和感はなく、むしろ秋に山を目指すのは願ったり叶ったりでもあった。心地よい汗を掻きながら木の棒でできた簡素な杖を使って、一歩一歩道なき道を掻き分けていく。
気がつけば大平原が見えていた。まだ掛かると思って歩いていたはずなのに、ここまで早くついてしまうのは、それだけ道が険しく、歩くことに集中していたからに違いない。もっと楽しみながら登ってきたかったとも感じたが、そんな思いはすすきの穂が一面に広がる大平原を目前に控えていては、感じる暇さえもない。
大平原を見て最初に感じたのは、
――まるでタイムスリップしたかのようだ――
それも時代は縄文時代、石斧や槍を持った髭面の男たちがいのししを追いかけているような光景が幻影として浮かんでくる。
作品名:短編集37(過去作品) 作家名:森本晃次