短編集37(過去作品)
「そうかな? やっぱり影は気持ち悪いんだよ。影がなかったらなんて考えたことあるかい?」
「俺はないな。影に対してそこまで意識していないからな。まるで石ころのようなものだよ。目の前にあっても意識をすることなんてないんだよ」
石ころのようなものだという考え方は、中学時代まで持っていた。石ころというもの自体を不思議なものだというのは小さい頃から感じていた。
――皆が見ているのに、まったく意識することないんだな――
と考えているだけで、だからどうなんだというところまでは小さい子供が考えることではない。
大きな影は気持ち悪いものだという感覚がいつまであったか分からないが、少なくとも聡子と出会った時に見た大きな影を気持ち悪く感じたということはなかった。
次第に聡子の存在が三郎の中で大きくなってくるにつれ、影を思い出すようになっていった。
聡子は恥ずかしがり屋なところがあり、人前に出ることを嫌っていた。いつも三郎の影に隠れるようにして、人と接していた。自分から表に出ることは決してなく、すべて三郎を立てているのだ。
三行半という言葉があるが、日本女性の恥じらいの象徴だと思っていた。自分から目立とうとせず男を立てるのは美徳のように見え、男からしても男冥利に尽きるというものである。
だが、いつも何かに怯えているように見えなくもない。普段から隠しごとをしない聡子が、何か肝心なところで心を開こうとしていないのが付き合っていくにつれて見えてくるからだ。
それを聞く勇気が三郎にはない。そっとしておいてあげることが二人の仲を円満に保つ秘訣である。たいしたことでもないのに聞いてしまって、彼女に不快な思いをさせることが嫌だった。遠慮していたのだ。
遠慮といえば、お互いに気を遣っていた。聡子も必要以上のことを三郎に訊ねないし、たまに、
――もう少し聞いてくれてもいいのに、聞いてくれればいくらでも話してあげるくらいの気持ちはいくらでもあるんだ――
と思う。もちろんその気持ちを口に出すことも態度に出すこともしない。
――このままだとすれ違ってしまうんじゃないかな――
そんな気持ちがなかったわけではなかった。考えるのが怖かったのも事実である。
――せっかくうまくいっているのに、今さら波風を立てるようなことをしても仕方がない――
と思うようになっていた。
それが間違いだと気付くのはかなり後になってからである。
――気付いた時には相手はいない――
まさしくその通りで、それだけ三郎がよく言えば人がよくて、悪く言えば鈍感なのだ。女性の気持ちの変化にこれほど自分が疎いとは思ってもみなかった。
聡子という女性はおしとやかで古風なところがある。人見知りするところも古風な性格に隠れて悪い性格に見えない。痘痕もえくぼとはよく言ったものだ。
聡子の後ろにある影が大きくなってくるように感じたのは、聡子が夢に出てくるようになってからだ。夢の内容まではハッキリと覚えていないが、あまり楽しい夢ではない。だから覚えていないのだろう。
かといって悪い夢というわけではない。普段から存在感の薄い聡子に、少し物足りなさを感じていたが、夢の中では彼女が主人公、存在感に満ち溢れていた。そのわりに三郎自身の心がときめいてこないのは、聡子自体の存在感は変わらず、後ろに見える影が次第に大きくなってくるからではないだろうか。大きくなってくる影に向って存在感を感じるのは夢であるゆえんともいえる。
「夢でまた会おう」
などというキザなセリフをドラマなどで見るが、少なくとも三郎と聡子にそんなセリフは似合わない。情熱的な恋でもないし、そこまでお互いに気持ちが盛り上がったことは一度もなかった。
聡子の身体を知らないわけではない。三郎が最初に聡子を抱いた時、お互いに初めてではなかった。もう二人とも二十歳を超えているのだから当たり前のことで、お互いに異性と付き合うのが初めてというわけではない。
聡子は以前に付き合っていた男性のことを口にすることはなかった。元々口数の少ない聡子が自分から以前付き合っていた男のことを話すわけもない。
三郎は聡子に前に付き合っていた女性について少しだが話した。
「君には隠しごとをするつもりはない。言わなくてもいいことは言わないが、言いたいことは言うようにしようと思う」
という前置きを置いて話した。
その時の聡子がどんな気持ちで聞いていたか想像もつかないが、表情にまったく変化は見られない。もう少し嫉妬心のようなものをあらわにしてくれてもいいように感じたが、表情を見ているうちに、その奥にあるものが安心感であると悟ると、三郎は、
――やっぱり話してよかった――
と思ったものだ。それから三郎は隠しごとをしなくなった。
だが、言わなくていいと思ったことは決して言おうとしなかった。その中には本当は話しておかなければならないこともあったに違いない。それが変な遠慮として聡子の目に写ったのではないかと感じたのは、別れてからだというのも皮肉なものだ。
言葉というものは本当に重要だ。
三郎は聡子との間に、言葉を超えた何かがあるのを感じていた。きっと聡子も同じだったに違いない。
――何も言わなくても分かってくれている。ひょっとして、聡子は自分が感じているよりも私のことを一番分かっているのではないだろうか――
とまで思っていた。実際に気付かないことを最初は指摘してくれた。あまり口数の多い方ではない聡子だが、ハッキリ言う時は言うのだ。
そこが聡子のいいところだった。それだけに聡子の一言一言には重みがある。心にずっしりと響くのだ。
一緒にどこかに遊びに行った時も最初はぎこちなかった。聡子は恥かしがり屋である。それも当たり前のことだったのだ。
照れ隠しに楽しい話に花を咲かせていた。しゃれを言って相手の気持ちを和ませようとする三郎に、聡子はうまく返していく。頭のいい女性であることはすぐに分かった。
おしゃれな場所が聡子にはよく似合っていた。おしゃれな喫茶店、おしゃれなブティック、おしゃれが好きな聡子には、どこか他の女性と違うところがあった。
服装やおしゃれには無頓着な三郎だった。服などは着ていればいいという程度のものでコーディネートなど、無縁だと思っていた。そんな三郎を無理にでもファッションの店に連れていこうとする聡子、生き生きした目を見ていると、無下に断ることもできない。
デートを重ねていて、お互いに好きだという気持ちを確かめ合ったのは、出会ってから三ヶ月目くらいだった。どちらからということではなかった。お互いに気持ちが高ぶっていって、入った時に気持ちは一つだったに違いない。
そこに言葉はなかった。
「いいだろう?」
この一言に頷く聡子、それがすべてだった。
まるでドラマのワンシーンを見ているようだ。客観的に見ていれば感動的なシーンだろうが、その時はそれほど感動があったというわけではない。
――なるべくしてなった――
つまり自然だったのだ。
ホテルに入ってからの記憶は、思い出せる時と思い出せない時がある。
――神聖な時を二人だけの世界として気持ちの奥に特別にしまいこんでいるんだ――
と思っている。
作品名:短編集37(過去作品) 作家名:森本晃次